俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

別れても好きな人

  一冊の本とともに真に発火したのは「自分」じしんであった。わたしの関係のとりかたはなぜひとを不愉快にさせるのだろうか(と思われた)。それに較べてなぜかれらはああも気軽に関係を運んでいけるのだろうか。だがそれにしても、あいつらのバカ面はどうだ。オレだけは目が見えている。とはいえこのオレにいったいなにがあるのか。なにもないし、なにもできない─。そのときの気分次第によって、目まぐるしく入れかわるこの自己肥大感と自己卑小感にわたしは翻弄された。

 

自分をつくるための読書術 (ちくま新書)

自分をつくるための読書術 (ちくま新書)

 

  一冊の本、とは吉本隆明の『情況』のことを指しているようだが、これは古典的な、文学青年の自意識の悶絶だ。あまりにも古典的で、やっぱりドストエフスキー地下室の手記』なんじゃないかこれ、と思うのだが、各章に付された文献リストの中にはドストエフスキーのその書の名はなく、かわりに秋山駿『地下室の手記』が挙げられている。「わたしとはなにか、を文学的に問いつづけた日本で唯一の本」とされているが、ぼくは未見。いつかどこかで目にしたが、ふーんと思ってそれきりだった気がする。

 サリンジャーの名も出てくる。

三十年前の旅でわたしが所持していた本は、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』一冊だけであった。銀表紙のペーパーバックの原書だった。いまも持っている。どこで買ったかは忘れてしまったが、伊丹十三氏の『ヨーロッパ退屈日記』[…]のなかで、かれが世界で一番好きな本と書いてあったことの影響だった。旅のあいだ中、少しずつ読んだ。分からない単語はとばした。

 この勢古氏の本が刊行された時点(1997年)で村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は出ていない。村上訳は2003年の刊行で、それまでは邦訳といえば野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』だが(『危険な年齢』なる訳は未見)、

白水社から邦訳『ライ麦畑でつかまえて』が出ているが、わたしには読めない。

としている。ああそういう読者っていたのか、とこれは思わぬ発見だった。

 自己肥大感と自己卑小感、という語も的確。文学畑で同様の論じ方がたしかにある。この本の、安心して読める地に足のついた感じは、こういうところから来ているというのもあるように思う。

 それにしても、外国から輸入したての概念を使ったりせず、日本語の読書環境の中に煮とけた用語なり論理なりだけを使っている。しかも部下や同僚と議論はするなとさとしながら、一方では売られたケンカは買え、とも言う。よくできた邦画や劇画の中の、日本的な多情多恨のしがらみのなかで日々をしのいでいくヒーローのような男くささがあって(ぼくには到底まねできない)、この著者には今さらのようにすこしだけ興味を持った。

 


別れても好きな人 / ロス・インディオス&シルヴィア