われら青春
当時のわたしは、記号学という「科学」に自分を同化させることができないかと熱心に考えていました。わたしは、科学性という(幸福な)夢を見ていたのです[…]
ロラン・バルト -言語を愛し恐れつづけた批評家 (中公新書)
- 作者: 石川美子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2015/09/24
- メディア: 新書
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文系の学問をやる者は、誰だって一度は、自分のやっている領域が厳密な科学ではないことにひどく幻滅する。何らかの形でそれを乗り越えて勉強を続けても、おりにふれて、それが回帰してくる。そういうことってありますよね。
むかし、経済学科というところに入ったのは、いわば間違えてなのですが、この問題と徹底的に向き合うことができたのは、かえって幸福でした。あのころ、ちょっと目立つ同級生がいて、文系の学生なのに白衣を着て、学部生が入れないようなコンピューター室に出入りしていたのを思い出します。べつに友達でもなかったですが、その彼がちょっと得意そうに手に持っていた『意思決定の科学』という本を見たときの、強烈なうらやましさ。今考えると、「生産管理」という名で開講されていたオペレーションズ・リサーチの本だったのでしょう。
でもその彼だとて、いつまでも「自分は科学をやっている」と陶然としていたはずはありません。人間とその社会を対象とする限り、「社会科学」はますます非科学的な領域へも足を踏み入れざるを得ず、そのことによって科学の装いや数学的なエレガントさは汚されてゆく。
ぼくは高校のとき数学をさぼってしまったので、オペレーションズ・リサーチに出口を見出すということはできず、むしろマルクスやウェーバーを読みかじりながら、「客観性」についてしきりに考えていました。ずっとあとになって、語学・文学に道を変えたときも、このことで何年も悩んだことがこやしとなり、理系の学生から多少悪く言われても、あんまり気にならなかったな。
だから、その後お勤めした大学で、社会系の学科の学生が、まったくの「言われっぱなし」の状態でいるのが、気の毒で仕方なかったですね。ぼくは単なる語学の教師で、これはこれで、ある種の〈世界の秘密〉に通じている変わり種として、文系・理系の対立の埒外に置かれていた面があり、口出しする場面もまったくなかったのですが、たまにこう言って励ましてやりたかったですよ。科学者の明朗さを持たぬことこそ我らの誇り、がっかりするんじゃねーぞ、と。