パリのアメリカ人
あまりにも過酷な状況の渦中にあるとき、言葉へとつながる〈体験〉など生じようないことを、石原は透徹した明晰さで語っている。極度の疲労と衰弱の中で、〈体験〉が生じる主体がもはや存在しないからだ。そのため、実際に石原の「収容所体験」が始まるのは帰国後、主体を取り戻してからだという。通常それは〈追体験〉という言葉で言われるが、彼はその追体験を通してのみ、収容所を体験することができたのだと淡々と語っている。そして主体と記憶の回復を手探りで模索していた帰国後の数年こそが、強制収容所での〈生の体験〉さえほとんど物の数でないような、もっとも辛く苦痛に満ちた時期だったと述懐している。
この本、昨日、母の眼科の待ち時間の二軒目の喫茶店で取り出し、倉数茂さんというかたの「北方幻想 戦後空間における〈北〉と〈南〉」を読み、帰りに図書館に返却。
倉数論文は「偽史的想像力」についての言及も含むのでその意味でも面白いですが、何といっても戦後空間における〈南〉と〈北〉の対置のさせ方が圧巻。南方での戦争犠牲者の声なき声が『きけわだつみのこえ』などにより国民的記憶に回収されていき、南方という他界がみずみずしい「優しさ」と「親しみ」をたたえた喪の空間となっていくのに対し、〈北〉を体験した者たちの記憶の語りは戦後空間においてあくまで傍流であり、「それらが読書界の枠を超えて高い知名度を得たとはやや言い難い」。「冷戦の分断線を乗り越えてやってきた彼らは、戦後日本におけるストレンジャーであり、異物だったのである」という指摘はどこまでも重いものがあります。
つまり〈北〉から回帰してきた彼らは戦後日本に属する我々の現実とは違う〈もうひとつの現実〉alternative realityを生きていた/生きている、ということにならないだろうか。要検討。
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先日の朝、ラジオから流れていたガーシュウィン『パリのアメリカ人』、よかったなあ。心が洗われるようでした。
つまらないことですが、ガーシュウィンの名を出して昔、先輩にバカにされた記憶あり。ガーシュウィンは総譜を書くのもままならず、人の手を借りて『ラプソディ・イン・ブルー』などを書いた、とどこかで読みましたが、だからガーシュウィン聴かない、というのは心が狭い気がするな。
Gershwin: An American In Paris / Gustavo Dudamel ...