俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

浪曲子守歌

  トルストイ、ドストィエフスキーを、ほとんど読まなかったのは、かんたんにいえば肌があわなかったということだが、チェーホフの『決闘』を媒介にして、トゥルゲーネフとゴリキーをつないでしまうと、いまさら巨大長篇にとりくむ気がしなくなり、ちょうどそのころ、学生新聞その他の活動がはじまって、読書に集中できなくなった、という事情もある。西ヨーロッパ文学では、トーマス・マン、ヘッセ、ジード、ロランなどを、かなり読みあさったが、ヘッセの『荒野の狼』とジードの『せまき門』をべつにすれば、当時の学生としてはむしろ例外的に、マンを愛好し、ロランはきらいだといってよかった。とくに『ジャン・クリストフ』は、老年期にはいったジャン・クリストフが、わかい世代を理解し包摂していくところが、やりきれなかった。そういう旧世代がまえにたちふさがっていては、あとの世代はなんのために存在するのだ。だいたい、ものわかりがいいということは、旧世代がみずからそう思っているだけの、おもいあがりではないのか。(水田洋『ある精神の軌跡』、社会思想社〔現代教養文庫〕、55頁)

 この本、ぼろぼろになるまで読み込んだ本ですが、このあたりが強く印象に残っています。「理解者」などとということばもありますが、これも緊張感をもって使わないと、べたべたとだらしがないことになってしまうのですね。みだりに「ぼくは〇〇くんの理解者だ」などと吹聴することはすべきではない。それは往々にして思い上がりだから。「〇〇先生はぼくの理解者だ」というのも、まあめったに口にするものではないでしょう。それは単なる甘えかもしれないから。

 こんなことを思うのは、モスクワ芸術座の演出家スタニスラフスキーと、革命の演劇の樹立をめざしたメイエルホリドのあいだに、やはり世代的な緊張があったらしいから。かつてチェーホフ『かもめ』で、スタニスラフスキーが中年の流行作家トリゴーリンを、メイエルホリドが作家志望の苦悩する青年トレープレフを演じた、などという出来過ぎのエピソードもあるそうで。通俗小説を次々書き飛ばし、愛人を作り、悠々と世渡りしてゆくトリゴーリンにしてみれば、不器用を絵にかいたような、そしてその不器用さを必要以上に苦にするトレープレフの悩みようは、可笑しくて仕方ないでしょう。この二人をスタニスラフスキーとメイエルホリドが演じた、というのは、なんだかとっても象徴的です。

 経験ある年長者からの助言に聞く耳を持つことは大事ですが、たんに先輩づらをして若者を抱き込んで付き合いに巻き込もうという輩に対しては、毅然とはねつける勇気も必要。年長者がうっとうしく思えてくるというのは、その人の心身が健康に育っている証拠と考えることもできます。だから、若い人が自分から離れていく、というのも、あんまり気にせぬことですな。そういうべたべたした付き合いをしなくてもさびしくないように、多くの人は家庭という防波堤をもうけて、つつましい団らんをなぐさめにしているのですから。僕はずっと独身ですが、猫が毎日エサをねだりに来るので、まあこんな人生もいいかと思ったり。

 


浪曲子守唄 一節太郎 (1987) - YouTube

 

Meyerhold at Work (University of Texas Press Slavic Series)

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