俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

コーヒー・ハウス・ブルーズ

 


Coffee House Blues.Lightnin' Hopkins. - YouTube

 喫茶店は難しいなと思います。
 東京に仕事で行く機会があったころ、むかし風の「学生街の喫茶店」というのはもう数が少なくなっているらしいことを知りました。で、半分仕方なく、今風のチェーン展開している「カフェ」に入るわけですが、こだわりの強い店主がいない分だけ、案外これがいちばん気楽でいいかもなあ、と思ったりしたことでした。レジ脇の棚からサンドイッチか何かを選び、アイスコーヒーを注文して、好きな席に座り、あとは小一時間の休息。かばんの中から本を出して眺めていても、誰も干渉しませんものね。これなのですよ欲しかったのは。パソコンを打っている勤め人さんもいれば、おしゃべりしている若奥さんたちもいれば、うとうと居眠りしている学生風の人もいて、みんなコーヒー一杯でこの「儀礼的無関心」を買いに来ているんだな、とわかります。
 田舎暮らしはいいこともいっぱいありますが、田舎暮らしの良さの多くは人間関係の濃さにもとづいているので、この種の「儀礼的無関心」を捜し求めるとなると、とたんに難しくなります。良さそうな喫茶店があるぞ、と思って入っても、そこで洋書をひろげて読むようなことは、やめておいたほうがよいですね。一、二回ならまあ、出来なくもないでしょうが、三回目くらいにはもう、「いつも感心ですね」などと話しかけられるようになり、そうするとそれに対応しないのも気まずいので受け答えしているうちに、そこにはすでに抜き差しならない人間関係が出来上がっている…自分はいつしか店主さんのパーソナリティの延長に位置づけられていて、そうなると、そこはもう、「誰にも邪魔されずに本が読める場所」ではない…
 いや、「興に任せてのおしゃべり」がしたくてそういう場所を捜し求める場合もたしかにあるんですが、同じ場が相反する二つの目的をかなえてくれることは、僕の経験から言えばまずありません。
 ただ、だから田舎はダメで都会がいいのかというと、そんな単純なものではなくて、だいぶ前、文房具特集を組んだ某雑誌を読んでいたら某フォークシンガー兼ライターさんが「酒場でパソコンを広げるのは無粋」と発言しておられて(でもポメラなる事務機器ならよいとの文脈で)、やはり都会でもあまり人目をはばからずにカフェやビアホールでそんなことしてると「儀礼的無関心を求めるのもたいがいにせえよ」と一喝をくらうのかなあ、などと思いました。

 また先日札幌で入った某チェーン展開カフェには「勉強はご遠慮願います」と張り紙がしてありました。薄利多売、回転率が命の外食産業ですから、コーヒー一杯で何時間もテーブルを占拠する者が増えたら、そりゃあ成り立っていきません。
…と、少し立ち止まって振り返るだけでも、喫茶店って難しいなあ…と改めて思います。
 そういえば、どうみても読書に向いていそうもないレストラン風の広い喫茶があって、あそこが案外よい「儀礼的無関心」を売っていました。ドストエフスキー『未成年』の邦訳を読み終えたのがたしかあの店で、秋か初冬だったでしょうか。あの店では店の人から親しげに話しかけられることもなければ、僕が通い詰めて長っ尻をすることもありませんでした。水のごとく淡い交わりが一番長く続く、というのは古くから言われてきたことですが、たしかに言えてるのかもなあ、などと思ったり。あそこは、いかにもテキトーそうに店内に流してるバッタもんのCDが、また渋くてよかったんですね。
 ここ最近は自宅で水出しコーヒーというのを飲む機会が多く、喫茶店にはとんとご縁がなく、あんなこともあったなあ、こんなこともあったなあ、と回想にふけっています。