俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ヘヴィメタルとしてのショスタコーヴィチ


YouTube: Shostakovich String Quartet No. 8 in C Minor (II)

 これはよく言われることでもあり、自分の経験とも合致することですが、「ヘヴィメタル」という言葉は70年代初期や中期に、なかったことはないんですが、あまり使われていた記憶がありません。ディープ・パープル やレッド・ツエッペリンを指すとき圧倒的によく使われていた呼称はいうまでもなく「ハードロック」。あるいはエアロスミスなどを指す「ヘヴィ・ロック」という名辞もよく使われていました。が、「ヘヴィ・メタル」というのはごく特殊な呼び名だったはず。それらの音楽はパンク/ニューウェイヴの台頭とともに「オールド・ウェイヴ」呼ばわりされるようになりました。しかしそうはいってもそういう音楽が好きだという「需要」は一方に確実にあるわけで、それを満たすために続々生まれたアイアン・メイデンデフ・レパードら新形態のハードロックをひとくくりにして、70年代の末、某音楽記者が「ニュー・ウェイヴ・オヴ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル」という呼称を使うようになった…雑駁にまとめると、「ヘヴィメタル」という呼称はそのような経緯で積極的に使われ、一般化するようになった、ように(僕には)見えます。これを過去に投影して、たとえば70年代初期の第2期ディープ・パープルなどを「メタル」呼ばわりすることは、神経質な僕にはちょっとできません。

 呼称とか名辞にこだわりすぎかもしれませんね。しかし、ハードロックってのは、少し身を入れて聴くなら、その根っこの部分で黒人音楽(ブルーズ、R&B)などの白人によるぶきっちょなコピーである、というのが割と鮮明な音楽でした。渋谷陽一さん風にいえば、黒人音楽にあこがれるけれども黒人のようには演奏できない、という事実に対する批評行為。そういう「へその緒」の部分を裁ち落して、純粋によくできた娯楽として完結した「ヘヴィメタル」、マーケティング用語としての「ヘヴィメタル」には、僕の関心のつけ入る隙がない、ように思われるんですね。

 とはいえ、そういう音楽を熱心に愛好する人がたくさんいるのは事実です。そういう人たちはこの「ヘヴィメタル」という語にまた違った、もっと実り豊かな、内実のある「意味」を読み取っているんだと思います。

 ショスタコーヴィチなどまったく詳しくないんですが、先日、新聞を読んでいたら以下の本の書評がのっていました。

Wendy Lesser. Music for Silenced Voices. Shostakovich and His Fifteen Quartets. Yale Unv. 2011.

 ショスタコーヴィチ弦楽四重奏を論じた研究書。「彼女の新刊『沈黙の声たちのための音楽』はソヴィエトの大作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の生涯と四重奏曲群に関する繊細で啓発的な考察である。なぜ四重奏か?リスナーの多くはショスタコーヴィチを、記念碑的な15の交響曲を通して知っている。それら15の交響曲では、彼は大音響で語り、包囲されたレニングラードへの支持を主張し、戦争の犠牲者を悼み、革命を賛美する。

しかし彼の交響曲は公的なスピーチでもあるのだ。そこにおける喜びや悲しみの表明はソヴィエトの検閲により注意深く見張られていた。交響曲の多くはそれぞれに不遇をこうむった。交響曲が絶叫し咆哮するのにくらべて、四重奏曲群はソット・ヴォーチェで[小声で]ささやく。交響曲にはときに目をそむけたくなるのに対し、四重奏曲群の誘惑には思わず身を乗り出す。またレッサーの信ずるところによると、四重奏曲群は日記にも似たものであるという。それらは『作曲家の内面への比類ないアクセズ』をもたらすものだというのだ」(Paul Mitchinson筆、デイリー・ヨミウリ、2011年3月30日、元記事はワシントンポスト

 この書評を読みまして、この本が読みたくなる…のではなく、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏というのをきちんと聴いてみたくなりました。動画を検索すると、その中でも一番有名らしい8番が聴けます。そのコメント欄に「これにドラムを加えればデス・メタルになる」「史上初のヘヴィメタル」等の投稿があり、このような「ヘヴィメタル」の用法は妙に納得させられるものがありました。もちろん比喩なんでしょうけど、音楽的ルーツ云々ではなく、あくまでアーティストの内面の探求としての「ヘヴィメタル」。ショスタコーヴィチの音楽に、こんな形でアクセスできるとは、思いもしませんでした。