俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

みちのく一人旅


YouTube: 山本譲二 - みちのくひとり旅

 3月11日の地震津波から1週間以上が経過しましたが、原子力災害まで発生し、予断を許さない状況が続いています。

 手許のメモでは、震災前の2月28日、地上波の某トーク番組を観ていたら、若手起業家が出演し、国づくりの基本は科学技術だから、文系の大学は縮小して、理系教育に力を入れるべきだ、と発言する、ということがありました。

 今は非常時なので、悠長な学問論を展開している時ではないですが、この震災でいっそう文系の学問の肩身が狭くなる、ということがなければよいなと思います。

 僕は学生として3つの大学に在籍しましたので、どこでも理系の学生は文系の学問を悪く言うものだ、ということを体験的に知っています。あるいは理解している、という態度をとる場合でも、その「理解」が大きな誤解に基づいているんじゃないかなあ…と思わされることもたびたびありました。たとえば、一つ目の大学で、僕は(柄にもなく)経済学専攻の学生だったわけですが、あるとき理学部や農学部の同級生と飲んでいて「経済学だって、インフレを撃退する方法を発明すればノーベル賞がとれるじゃないか」と言われた時の、何とも言えない異様な感じは、今でも忘れることができません。

 その「異様な感じ」。言葉にするのはやや難しいですが、この人たち、自分(たち)の心身の外部に、客観的に観察・制御可能な対象として「インフレ」があると思っているのだろうか…という驚き、とでもいえばいいでしょうか。

 農繁期に人手が足りなくなるとき、ある国では賃金を倍にすれば倍の人出が集まってくる。ところが、これはどこでも通用する普遍的な「原理」ではなく、別の国へ行けば、賃金を倍にしたとたん、働き手は2日に1日しか来なくなる…これはやや過度な単純化ですが、社会科学入門のたぐいの授業で最初に習う基本事項の一つです。あるいは、個人としては合理的に行動していても、それを社会的に総計すると個々人のもくろみとは正反対の災厄が引き起こされてしまう、というマクロ経済学の「合成の誤謬」。社会心理学という分野でも、「社会的パラドクス」というのを習いました。

 食糧不足が予見されるのでたくさん買いだめしておこうというのは、ミクロ的には一見理にかなっていますが、全員が同じことをすると物資の退蔵が起こり、ほんらい供給は足りているのに、必要な人にものが届かない、ということが起こります。今朝のNHkーTVで、東京のモノ不足を心配した「青森」の「被災者」が、東京の家族に「何か送ろうか」と電話した、といった話が紹介され、上に書いたような知識を皆が共有して、自覚的に行動することは、やっぱり必要なんじゃないかなあ…と考えさせられました。

 僕がそうした勉強をさせてもらった学問所のひとつは、今回、被害をこうむった地方にあります。友人たちの無事を祈っています。