俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

楽園のDoor

佐藤 歴史の背景や文化を知ろうと思ったら、文学作品から得る情報はとても重要です。ただし、歴史小説はあくまでフィクションなので、その点には注意してほしいですね。経営者が愛読書としてよくあげる司馬遼太郎の『坂の上の雲』には、明石元二郎陸軍大佐とレーニンが面識があったように書かれています。しかしその文献的な根拠は、明石本人が書いた『落花流水』しかなく、史実と勘違いして鵜呑みにすると大変危険です。歴史小説はあくまで「娯楽」として読むべきで、それで歴史を学ぶのは厳禁です。(276ページ)

 

  ここ、引いとこう。

 前にも書いたけれど、むかしむかし買った西洋経済史の本に、古今東西の文学作品に触れるのが歴史を知る「捷径」、つまり早道だ、と書いてあったことがいまだに忘れられない身としては、そこのところをぼかさずに明確に「それで歴史を学ぶのは厳禁」としてあるのが新鮮に映る。

 むろん、この佐藤優はことあるごとに、小説も読め、と言っている人なのであって、文学が無用だとか有害だとか言っているわけではない。そこを間違えてはいけない。

 文学と、人文・社会系の学問の協働というのはつねにうまくいっているわけではなく、文学が専門、というと、ほかならぬ文学部においてすら、たいそう肩身の狭い、つらい思いをさせられることがある。娯楽として小説を読むことなどだれでもやっていることだから。そこがいつもぼくらにとってのデッドエンドだ。ここの部分を悪意をもった人間に執拗につつかれると、ぼくらには逃げ場はない。

 言い訳は、いろいろあった。いやあ、ぼくらは語学屋として雇われているわけですからね、と英語の教授は言っていた。文学研究は文芸評論とも、ましてや読書感想文とも違うのだぞ、とけつをまくることだってできただろう。しかし、文学研究なんて究極のところで趣味の読書と限りなく区別がないじゃないか、という事態の本質はごまかせない。

 決定的なのは、群を抜いた読書の水準を維持できているかどうか、それだけだろう。日本文学専攻であれ、外国文学であれ、おもてからもウラからも読みこなせていれば、その人の能力を、良識ある人がそうそう見くびれるものではない。何より、そうしたレベルの高い読書をしている人ほど自然な自信と謙虚な落ち着きがあり、細かい批判はあんまり気にならないだろう。

 ただ、これは言うは易く…のたぐいではある。読書計画を立てても、計画通りに行くことなどまずない。読まなければならない本は、増えてゆく一方だ。


楽園のDoor 南野陽子