京都の夜
「政治」はいつからか、「行為」actionではなく、ある戦略・戦術を「所有」することに置きかえられた。戦略・戦術の意図をもった行動・活動によって、制度を創造・維持・改革・革命・破壊することが、政治活動といわれるようになった。消費がアクティヴな様式になってくるにつれ、この「制度化された政治」は、支配権力であれ反権力であれ、〈政治行為〉を麻痺させるようになる。無知を啓蒙し、「限界なき学問」による認識を専門主義の管轄下で啓蒙し、民衆に獲得=所有させ、多数者を投票ブロックに囲いこむかあるいはアンチテーゼの直接参加に動員する。
京都の話。
もうあの出張から帰着したのが一週間前になってしまった。放心して過ごしているとあっという間だが、あのときの参加者は思い思いのお盆休みを過ごしながら、すでにとっくに次の仕事に取りかかっている。
ぼくは、スカイプを使ってロシア人作家にインタビューしたのを録音しなかったことがひどく悔やまれて、記憶が薄れないうちに再現しておきたいと先方に申し入れたところだ。で、先方にとってはひどくやっかいな話であることだろう、と思いつつある。
音楽は演奏されたら宙に消えてしまう、と言ったのはエリック・ドルフィーだっただろうか。インタビューも同じだ。その場の興にまかせての受け答えは、録音・録画でもしておかない限りは、あとから記憶に頼って再現しておこうったって限界がある。
それでも上記のような申し入れをしたのは、少なくとも自分には、公開の場でその作家にインタビューするなどという機会はこの先あるかどうかもわからないことで、何らかの形にして残しておくことが自分には(そして願わくは相手にとっても)意味のあることだと感じられるからだ。
研究会などの報告を、あとから論集などの形で冊子にまとめるということはよくあることだが、今回の研究会の論集なり報告書が出るかどうかは、今のところ確たることは聞いてはいない。ふつうの報告ならば原稿があるので、それをあとから提出することは比較的容易だ。しかしインタビューはそれができない。何回かスカイプの練習を兼ねてリハーサルも行ったので、今のうちなら再現ができる気がする。時がたってからだと、記憶もあやふやになって、とうてい無理だろう。
ぼくは人に過大な仕事を要求をしたりするのはもちろん好きではない。が、これくらいなら、先方の多忙な仕事の合間に、少しずつでもやってもらえるのではないか、と感じられた。頼むとしたら今日がギリギリのリミットではないか、とも思った。
北海道は、例の台風通過後、急に気温が低くなり、今日も二〇度に届かない。