俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

京都の女の子

 He thought of Bellamy, the hero of whose Socialistic Utopia had so oddly anticipated this actual experience. But here was no Utopia, no socialistic state. He had already seen enough to realise that the ancient antithesis of luxury, waste and sensuality on the one hand and abject poverty on the other , still prevailed.

 

When the Sleeper Wakes (English Edition)

When the Sleeper Wakes (English Edition)

 

  英語の本を早くから読めるようになる人のかなり多くは、そのまま英語至上主義者になってしまう気がする。別に統計があるわけではないが、英語がとてもできる人が、英語以外の外国語教育を資源の浪費のように言う例をいくつか知っているし、ここでも書いた気がする。

 かく言うぼくも、かなり危ういのだ。ここ数年、本業のロシア語のほうへ傾注すべき努力のかなりの部分を、英語の本の「積読」の解消に充ててきた。H・G・ウェルズの代表作をまがりなりにも読んで喜ぶというのは若い時に済ませておくべき経験なのだろうが、それが遅かったのはしょうがない。

 たしか黒田龍之助さんかどなたかが、外国語を新たに始めても、それがしっくりと自分のなかに根付くまでには10年くらいはかかる、と書いておられた気がする。自分の場合は、その「10年」が、ひょっとしたら15~20年ぐらいなのかもしれない。語彙力や読解力がいいぐあいにこなれてくるには、ぼくにはそれぐらいの時間が必要だった。これは事実を言っているので、そんなにかからない「はずだ」という反論には答えようがなくて、ここから言えることは、多くの若い人は英語でも何語でも、そこまで時間をかける余裕を与えられないまま、機会を逸失しているのではないか、ということ。

 これは物事の経済性とか、なぜ社会には「分業」があるのか、ということと深くかかわってくるから、万人が外国語の習得に20年かけたらいいだろうという結論にもなかなかならない。かつて千野栄一先生が書いていたごとく、旅客機のキャビンアテンダントは日常業務で必要な英語ができればよく、やや込み入った要求に答えられるスタッフが数人に一人の割合でいればそれでよい。めったに起こることのないハイジャック事件のあとのマスコミ対応を完璧にこなせる英語力を全乗務員に身につけさせようというのは現実的ではない。

 …とこう書いてきていやでも見えてしまうのは、業務に即した英語ができればよい、というのは今もそうなのかどうか、ということ。英語ができるできないで人間を振り分けるなど無意味だというのはまったく賛成だ。ところが一方では、英語力の資源化/資本化は現実に進行しつつあるようにも見える。

 学のある親が、子どもに「読解力をともなった英語力をつけて、将来は日本なんか飛び出して英語圏で豊かで自由な生活を送れ」といったことを説く例を、どこかで読んだ気がする。英語力の有無が、社会階層の断絶をさらに押し広げる機構をそこに見たような気がした、そんな思い出。これが英語エリートの本音だとしたら、第二外国語の教師などいまの社会ではなるほど無力だ。記憶違いだろうか。


京都の女の子 ・・・研ナオコ