俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

京のにわか雨

 「ロシアと知識人」というテーマは彼を強くとらえたので、彼はそれを論じるためにペテルブルグの「宗教・哲学協会」で、一九〇八年一一月一三日と一二月一二日の二度にわたって発言した。ロシアと知識人の間には「越すことのできぬ一線」があった。民衆の腕に身を投じる知識人さえ「嘲笑あるいは沈黙にぶつかり」、やがておそらくはいっそう悪いことに直面した。というのは、沈黙はまさに終わらんとしていたからだ。「静寂は終わり、遠いうなりが大きくなってくる……」

 

ロシア・ルネサンス―1900-1922 (1980年)

ロシア・ルネサンス―1900-1922 (1980年)

 

  とにかく、いまを逃すとこの本を耽読する機会もないように思えてくるのは、何の予兆だろうか。

 上の一節はアレクサンドル・ブロークに関するもの。学部生でブロークを卒論に取り上げる学生がいる、という、そんな研究室に入れたのがもうずっとあとのことで、皆が五本の指のように知っている事柄を一から勉強し直さなくてはならない状態は、実は今もずっと続いている。

 ロシアの知識人の問題というのは、以下の本に教えられてずっと興味があったのだ。

 

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

 

 第二の後進国問題は、近代化の過程で、先進国の事実または思想を、後進国が受けいれるときにどのように歪曲され変容されるかという問題である。もちろん、この問題の存在には、予科二年でカントをかじったとき(とくに大阪商大にいったとき)に気がついていたが、三年のときに文芸部の『一橋』に、西川正身教授が書いてくれた「ハムレット型とハムレット劇」が決め手になった。それは、トゥルゲーネフの講演『ハムレットドン・キホーテ』[…]を材料にして、後進国ロシア(およびドイツ)におけるハムレット像のゆがみを指摘したもので[…]

 上記の二冊は、うまく使えば絶妙のかみあわせ具合になりそうな気もするが、まあ、焦らずにおこう。

 旅行というか出張の機会が、今は昔ほど多くない。トランク型のスーツケースを店頭で見かけたけれど、買わずにがまん。アイスコーヒーのパックを二本。


『京の にわか雨』 小柳ルミ子