俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

京都の恋~「銀の時代」とは一九世紀末のロシアの文芸思潮

 ヴャチェスラフ・イワーノフは一九〇三年に外国から帰り、『導きの星』、つぎに『透明』と『悩める神のギリシア宗教』といったエッセーを出したが、彼はその年齢にもかかわらず、若いシンボリストたちの確乎とした支柱だった。彼はブロークやベールイとは異り、古代の神秘の道を通ってシンボリズムに達した。彼の教養はすべて古典の大家にふさわしいものだった。彼はすぐれた知性によって、どんな教義や人間をも理解することができ、またなにごとにつけ議論し、判断することができた。ヴャチェスラフ・イワーノフは「ぼくらの前で理想の蜘蛛の巣を編んでいるように思えた。 その巣は結びつけることのもっとも困難な人びとを結びつけ、しかも、彼らすべてを魅了した」と、ベールイは『ブロークの思い出』の中でのべている[…]

 

ロシア・ルネサンス―1900-1922 (1980年)

ロシア・ルネサンス―1900-1922 (1980年)

 

  海野弘さんがロシアの一九世紀末~二〇世紀初頭の象徴派の文学者たちについての本を出したが、高くて買えない。その時代のことを一九世紀初めの詩の「黄金時代」と対比して「銀の時代」と言う。

 ロシア世紀末=銀の時代=象徴派(シンボリスト)のことは、大学院に入ってはじめてちゃんと知った。知って、しかもそれらが簡単に読み解けない詩や哲理の本ばかりだとわかって、すごく興味をかきたてられ、いつかちゃんとやりたいと思いつつ、今日に至っている。

 上記の本のことは前にも書いたけれど、必読書だ。しかし、銀の時代に興味があるといいながら、これすらこなし切れていない。海野氏の本は、読みたいのは山々だけれど、これを暗記するほど読んでからでもいいだろう。

 

ロシアの世紀末: 銀の時代への旅

ロシアの世紀末: 銀の時代への旅

 

 

 いつかちゃんと「銀の時代」をやりたいと思いつつ…というところは、なかなか言葉として人に伝えるのが難しい。大学に一〇年以上勤めたのはたしかで、当然、そこでの「研究」の一環としてそれをやっても、特にどこからも苦情が出たとは思われない。ならば手当たり次第に買い集めた「銀の時代」の文学書を耽読する余裕がそのころあったかというと、現実にはなかなか難しい。

 就職して二年目くらい、アレクサンドル・ブロークの「報復」という作品は、ノートを取りながら通読した。それについて研究ノートでいいからどこかに発表できていれば、ぼくの研究者としての道はだいぶ違っていただろう。だが、勤務していた大学では、語学教師が文学について書いた論考を発表できるような紀要は、ちょうど廃止されたばかりだった。

 もちろん、あのとき何か書いていたとしても、それはかっちり完成した論考にはならず、「試掘」に過ぎなかったろう。しかし、情熱にまかせてのめったやたらな「試掘」さえみだりに字にしてはならない、となったら、その先の、かっちり査読を通るような「完成品」に、どうしてたどりつけようか。

 なにより、話し相手がいなかったのを思い出す。そりゃあ今だって、勉強のことを話し合えるような相手は身近にはいやしない。ただ、あの頃は、話し相手がいないという以上に、うかつにその種のことを話すと、「文学ばかり読んでいないで…」とか「もっとうまくやりなよ。おれがあんたならとっくに教授だよ」とか、聞かなくていい説諭を聞かされる羽目になりかねなかった。うんそれはそうだと思いつつも、ならばこの買いためた「銀の時代」の文献は、この世にいるうちは読むこともないのかなあ…と、そんな気持ちもしたことだった。

 いかん、これも愚痴だな。仕事と仕事の合間のすきま時間で数十ページ分原書を読めるだけの、ロシア語の読解のちからがぜんぜん不足だった、それだけのことだ。

 大学院時代、演習で「銀の時代」のものは読まされた。たしか入室したばかりの研究室で、ぼくはジョイスやウルフみたいなモダニストはロシアにいるのですか? と無知丸出しの質問をしたのだった。当時助教授だった先生が「これはいかんな」という表情になり、たしか当初別のものを読む予定だったのが変更されて、ベールイやレーミゾフを読まされたんだっけ。

 語学は、とにかく時間がかかる。一九世紀末の文学となるとなおさら。せっかくこの道に入ったんだ。字面がむずかしい、といってしょぼくれていてはつまらない。前を向いて。


水沢ベンチャーズ1~二人の銀座、雨の御堂筋、京都の恋