俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

涙のジルバ~無音のテレビを観ながら/本を探す未明

(このぼくはうんと前から森のことを考え、森について議論し、森の夢を見てきたけれど、そのぼくでさえも、それが実在することを疑ったことはない。それが存在することを確信したのは、はじめて断崖へいったときではなくて、表玄関にかかっている看板に〈森林問題局〉と書かれているのを読んだときだった。遠い道のりを歩いてきて、埃をかぶり、かさかさに干からびていたぼくは手にトランクをぶらさげてその看板の前に立ち、そこに書かれている文字を何度も読み返し膝が萎えるのを感じた。なぜなら、それを見て森が存在することがわかったからだ。つまり、それまでぼくが森について考えていたすべてのことは、貧弱な想像力の戯れであり、青白くて弱々しい欺瞞であった。森は厳然として存在し、この巨大でいささか陰気な建物が森の運命に関心をもっているのだ……)

 

そろそろ登れカタツムリ

そろそろ登れカタツムリ

 

  テレビは、ぜんぜん観ないわけでなく、夕食時から寝るまでついている。

 昨晩は、地上波はうるさい番組ばかりだというので、BSで、どこか石川県のほうの鉄道に乗る紀行番組を観ていた。ぼくというより、老母がそういうのを好んで観る。

 それでぼくは、「むかしは、作家がエッセイや紀行を書いたのを雑誌や文庫本で買ってきて読んだんだよね。いまはそれがこういう番組に置き換わったんだよね」と適当なことを言いつついっしょに観ていた。

 そのうち、老母が居眠りを始めたので、起こさず、TVの音量をゼロにした。画面では美しい海が映っているが、音はしない。冷蔵庫のほかに冷凍庫を置いてあるけれど、その冷凍庫のブーンといううなりだけがきこえて静かだった。

 三十分ぐらいそうしていたかな。やがて老母が目ざめて、また話をしたけれど、いっとき静かで、とてもぜいたくな時間に感じた。

 今朝は未明から起きて本を探す。持っているのは確かなのだが、どこを探してもない。ふつうなら、2,3時間捜して見つからなければ、アマゾンで注文してしまう。しかし今日はさすがにそれは馬鹿々々しく思えて、5時間ぐらい探した。自室の本の山の陰にまた本の山があるのに気づき、それを覗くと、他の本の下敷きになって「そ」の文字。これだ。『そろそろ登れカタツムリ』。

 最初の大学時代、勉強をせず音楽ばかり聴いていたのは、いつも書いている通り。あれで、食べていける生業が見つかれば、ずっとあの学生街近くにいてもよかった。

 


高田みづえ 涙のジルバ