俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

マンボ・バカン~金と労働価値のことに思いがけないところで出会う

 貴重な金属をどうしてそのような無駄なことに使ったのだろうか、という質問に答えて、一人の古参の考古学者が、昔ある国で、その国の保有する金がそっくり消えてしまったという伝説を、古い文献で読んだことがあるという話をした。当時は金が労働の価値と同じ値打ちを持っていたのである。その頃、ある国に犯罪的支配者がいて、横暴な政治をおこない、国民を疲弊のどん底につきおとし、あげくのはてには国外へ逃亡してしまったのであるが(当時は国境というものがあって国民は自由に往来することができなかった)、かれは外国へ逃げる前に、こっそりとありったけの金を集めさせ、それで大きな彫物をつくらせて、それをその国の一番人の集まる大広場に建てさせた。誰もそれが金でできているとは気づかなかった、という話である。おそらくその彫物の表面は安い合金でつつまれていたので、内部の金属が何であるかは、その当時としては、誰にもわからなかったのだろう、とその考古学者は推測した。

 

 

世界SF全集〈第22巻〉エフレーモフ (1969年)

世界SF全集〈第22巻〉エフレーモフ (1969年)

 

  「そのような無駄なこと」というのは、未来の地球が舞台となっているこの小説で、海中から金で出来た馬の彫刻が見つかることを指す。

 当時は金が労働の価値と同じ値打ちを持っていたのである、ここなんだよなあ。経済学科で勉強させてもらったのに、金本位制というのがどういうものだったのか、ぼくは歴史に即してわかっていない。

 いま手もとの高校生向けの日本史の参考書を見ると、日清戦争後に綿紡績業が確立し、綿糸の輸出量が輸入量を上回り、また日清戦争の賠償金が入ったため、それを準備金として1897年に金本位制が確立、とある。

 たしか西南戦争の戦費のためにそこらの銀行に刷らせた紙幣のせいでインフレとなったときは松方正義が大蔵卿になってそれを整理し、そのときはいったん銀本位制となったんじゃなかったか。つまり、紙幣を銀行に持って行くと銀と替えてくれた。それが金本位制になったのが明治三十年、ということ。まあそれはわかる。

 で、今でも紙幣の究極の裏づけは金だ、と語る人もいる。

佐藤 ええ、論理的に詰めてゆくと金に換えられるものが通貨だという考えに私は立ちます。それは二つの理由があって、一つは自分のソ連末期の実体験から、貨幣が最終的にもので裏打ちされていないと貨幣でなくなるところを見た。もう一つは、ニューヨークの連邦銀行の 地下になぜ金があんなにあるのか? しかもあれ、ときどき移動させるんです。日本銀行の持っている金がニューヨークの連銀に動いたり、ニューヨークの連銀の金が日本へ動いたりする。わざわざ、そんな金を移動するだけのつまんないゲームをやるのは、やはり人間が金というものから離れることができないからだな、と思うんです。

 

 

いま生きる「資本論」

いま生きる「資本論」

 

  で、連想はどんどん飛ぶのだが、むかしメアリー・シェリーの演習があるからというので単位を取りがてら出たが、そのときパラケルススという錬金術師のことをちらっと習ったのだ。人為的な化合によって金でないものを金に変える錬金術 alchemyというのは、やがて近代の化学 chemistryになっていったというくらいのことしかおぼえていないけど、ここのところ、化学と経済とがつながって見える部分で、やっぱそうなると英語だけ読めたってそのへんの勉強は難しいかもしれない(ロシア語は多分あんまり関係ないだろう)。

 

パラケルスス論

パラケルスス論

 

 

 

自然の光

自然の光

 

 

 

 

 

パラケルススの生涯と思想 (1976年) (叢書・人間の心理)

パラケルススの生涯と思想 (1976年) (叢書・人間の心理)

 

 

 金と言えば、そんなふうに連想が働く。勤めているうちに金投資でもしておけばよかったかもしれないが、そっち方面にはぼくのあたまはちっとも働かないのでダメなのである。

 一日じゅう雨で、そんなこと考えつつ一日が終わる。老母が赤い長靴を買った。


マンボ・バカン