俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

白いハイウェイ~政治における一人称について非政治的に語ってみる

「彼らのなかに飛び込んで、はじめて気づいたのは、SEALDsは個人の集まりであるということだ。そこでは、沖縄出身の子も、東北から来た子も、在日の子も、『わたし』として法案に反対する理由を語っていた」

政治の世界では珍しい、「わたし」を主語とする、新しいことばを持った運動。その運動に惹かれてゆく、ひとりの人間の心の動きが正確に刻みこまれた文章が、そこにあった。 

 

  いやだからそれはよくわかるのだ。で、ならば、揚げ足を取るつもりはないのだけれど、なぜ「ぼくら」の民主主義なのかなあ。床屋政談より大きな政治談議はあんまり語りたくないが、ちょっと気になった。

 これは、ぼくもよく知らんのだが、マヤコフスキーロシア革命のことを「わたしの革命」と呼んだことに通じ、政治というより、たしかに文化の次元に属することなのかもなという気はする。いまどろなわ式に文献を探すと、『ユリイカ』の1983年1月号というすごいものが出てきて、水野忠夫先生のお書きになっているこんな一節が目に入る。

 考えてみますと、革命初期のこの時期は、革命と芸術とがほんの束の間であれ、手を結ぶことができた幸福な時期であったと思います。しかし、革命とは必ず逆流を生むものであり、革命をつねに革命し続けるのはきわめて困難なことです。これはまた、芸術家一人一人の問題でもあります。やがて革命は、「わたしの革命」であることを否定しはじめます。あるいは、芸術家にとっては「わたしの革命」であっても、革命のほうでは「わたし」を求めはしなかったということかもしれません。革命はやがて「われわれの革命」となり、「われわれ」という一人称複数が出てくることによって、「わたし」が消し去られてしまう。そうなりますと、「わたし」を否定して「われわれ」に転化することで、「われわれの革命」を続けるかどうかが問われるようになり、「わたしの革命」としてロシア革命を受けとめてきた芸術家は、「わたし」と「革命」とのあいだの落差を自覚しながら、[…]

 といことで、ほらね、芸術の話でしょ。

 で、ぼくはこれもよく知らんのだが、ぼくの会社員時代二度目の学生時代くらいに渡辺美里の「マイ・レボリューション」が流行って、ただしぼくはその曲よりも、何とかいうタイトルの別の曲のほうがリズムの冒険があって好きだったりしたのだった。

 このへんのことは、ぼくも古い人間だから、二十年前くらいでとまってる。モスクワに行ったとき、同じ語学研修を受けていたKさんというかたと話をしていて、ぼくが古本を買いあさっていることを知って、マヤコフスキーの選集を古本屋で見つけて、「売れてしまわないうちに」とわざわざかついで寮に帰ってきてくれたことがあった。ちゃんとお代を払ってありがたく引き取らせてもらった。あれは本当にいい思い出。寮のそばに古本の屋台が出ていて、ろくに読めもしないベールィを買ったのも、透きとおるようにきれいな夏の思い出だ。帰国が近くなった日曜日、地下鉄の駅を出たところで夕立が降ってきて、足止めを食らったのも、鮮明に覚えている。モスクワは激変したことだろうね。

 あれから長い時間が経ったのに、それを読む余裕がちっとも捻出できなかったことは、やっぱり痛恨事だったりということはある。ぼくはまだほんのひよっこで、これから読むのだ。


ヒカシュー 白いハイウェイ PV