われらとやつら~『丘の上のバカ』を少し読んだ初夏の日
「私」は「私たち」という、ほんとうはだれのことを指しているのかわからない、抽象的な、甘い囁きの中で、自分を見失ってゆく。それこそが、政治のことばが目指しているほんとうの目標なのである。
「私たち」ではない、「私たち」とは異なる価値観を持った「やつら」を排除するために使われる「私たち」ということば。
勉強のような仕事のような…とここに書くことがあるけれど、それが袋小路に入ったかのように停滞し、すっきりせず。図書館の本、読まずに返そうかと思っていた一冊を、とりあえず半分ほど。
まとまった感想は、今は書けない。オバマの広島訪問のさいの演説の中の「私」と「私たち」を数えてみる、という分析にするどいものを感じる。となれば、この二十年、オレはいったい何をしていたのか、という感がますます深まる。ザミャーチン『われら』は原文で一回読んだけど、難しくて最後のほうは構文がはなはだ取りづらかった記憶しかない。オーウェル、ハクスリーは、わりとよみやすかった。『われら』との対比で英国のバンドUrusei YatsuraのCDを思い出すが、あれどこにしまい込んだだろうか。もちろん『うる星やつら』からとられたバンド名らしかったが。
わからない? そんなことないでしょう。いま、政治に限らずいろんな場面で、個として立つことは非常にエネルギーの要るしんどいことだ。人のことは言えない、ぼくがそうだ。で、徒党を組む。そうすれば「私」=個として立つしんどさを避けて「われら」を名乗ることができ、「われら」ならざるものらを「やつら」として排除・抑圧できる。あとは往々にして、陰湿な相互攻撃。ところがくだんの英国のバンドはその排除すべき他者であるはずの「やつら」をバンド名として選び取り、"We are Urusei Yatsura"=「われらこそ(うるせい)やつら」と名乗る。この逆説的修辞の妙。
大学院生としてぼくが学んだ大学では、むかし国文の院生らが『異徒』という研究同人誌をやっていた、らしい。「らしい」というのは、現物も見たことないし、ひょっとしたら大学の垣根を超えた運営方法だったのかもしれず、あくまで伝聞で知っているに過ぎないから。しかし、『異徒』、なんかいいなあ、とぼくは思った。大学って、そういう「やつら」が存在できてなんぼじゃないのか。古いでしょうか。
さわやかな快晴。こういう日がずっと続くならいいけれど。
- 作者: ザミャーチン,ЕвгенийИ.Замятин,川端香男里
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/01/16
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