俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

認識されたものの認識~研究対象の次数をめぐって

リヴァイアサン』の解説を書くために、テニエスとクノウが、ホッブスの絶対主権の性格をめぐって、『ノイエ・ツァイト』誌上で論争を展開したことをしった。それを主要な材料として書いたのが、『歴史学研究』[…]に掲載された「ホッブスかいしゃくの一系列」である(のちに加筆のうえ『近代人の形成』に収録)。この論文については、当時日本評論社にいた吉田悟朗[…]から、編集委員会としては「もっと問題意識のあるものがほしかった」という希望がつたえられた。もちろん、資料貧困の問題意識過剰症には、当時から批判的であったとはいえ、イギリスとドイツの思想史的対比は、まえに書いたように、学生時代に高島さんや西川さんに教えられた問題であって、それがこの論文でまだ自分のものになっていなかったことはたしかである。しかし、ホッブス解釈史がそのままドイツ思想史であるということの意味、思想史のこまかいひだにわけいって、思想の機能変化を検証することのおもしろさを、ぼくはこの論文を書きながらはじめてしった。だから、悪戦苦闘していてもたのしかったし、いまでも、あとで加筆した部分よりも、まとまりのない前半の方がなつかしい。

 

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

 

  外国の思想の、そのまた研究史の研究などというのは二義的なもので、学問といえるのか、という問いは、あってよいと思う。思うけれど、例えばこの人のこの一節は、そのことに十分自覚的なので、研究史を引き写せば業績になる、といった安易なことが言われているわけではない。ドイツもまたイギリスの社会思想を咀嚼しようとした歴史を持ち、そのことの研究自体がドイツ思想史研究たりうるという、この機微をわかるかどうか。そこが分かれ目だ。

 文献学というもの自体がそういうもので、以下の本では文献学者ベックの言葉で、文献学は現実を認識するのではなく、誰かが認識して書き記したことをさらに認識する、という意味で、「認識されたものの認識」という言い方が紹介されていたと思う。現物が出てこないのだが、ぼくもこれに大いに力づけられた。それならばたしかに、研究対象の次数がひとつずれ、書かれたものこそが一次資料となる。

 

英語学とは何か (講談社学術文庫)

英語学とは何か (講談社学術文庫)

 

  書かれたものを読んで思索し、それを字にする、そのことが一生を賭けるに価する仕事たりうるのか、ということに悩まない文学の院生というのは、ひとりもいないだろう。皆そこを悩んで悩んで悩み抜く。理系の人々から「お前らくだらないことやってるな」といったあざけりを浴びせられることは日常茶飯事だ。あざけりとは言わずとも、書かれたものは二次的なものに過ぎず、なぜ現地へ飛んで実地調査をしないのか、と問われることもしょっちゅうだ。

 もちろん、社会学文化人類学はその方法をとるし、文学や歴史の研究者でも、可能な限り一次資料に近づこうとけんめいの努力を続ける人々もいる。

 

 

 

 しかしそうした少数例を免罪符のように掲げても、回答したことにはならない。何にたいして? しょせん人が書いたものを読むだけでしょ、それ研究なんですか、という問いにたいして。

 かつて研究室を持っていたころ、やんちゃな学生たちが遊びに来て、ひとりが、「せんせー、小説ばっか読んでないで仕事しろよ、あはは」と言って去ったことがあった。まさにそのこと。娯楽として小説を読むなど、誰でもやっていることだ。たとえ外国語小説であれ、それが仕事と言えるのかという目で世間は見る。そこをクリアできるかどうか。

 たまたまぼくはもう大学から給料と研究費を支給される立場にないけれど、この問題と完全に無縁になった気もしない。絶えず頭のどこかではこのことを考えている。このことを考えない日はないくらいだ。

 メモ代わりに。明日から数日、北海道は真夏並みになる。


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