俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

雨の札幌~世界史とか英語とかをがっちりやりたかったあの頃

 高校世界史の教科書といえば、ぼくにとってはもう二十年以上前の記憶になりますが、膨大な史実と年号がつめこまれ、それらを暗記するためにラインマーカーで何度も引いた線でいつの間にかグチャグチャになった本です(それくらい記憶力が悪かった、ということでしょうか)。

 では、内容がおもしろかったかとか、その背後に歴史家の 仕事を感じとれたか、といえば、答えは「う~む」というところ。先に、「膨大な史実と年号がつめこまれ」と書きましたが、要するに、ぼくの目には「教科書=年号つきの史実が時代順かつ地域別に並べられた年表を文章化したもの」としか見えなかったのです。年表がおもしろいか、といわれたら、年表マニアは別として、たいていの人は「うーむ」と唸ることでしょう。

 こんな印象は、独りぼくだけのものではないと思います。無味乾燥な史実が羅列されているだけとか、ストーリーがないとか、単一の歴史の見方を押し付けているとか。高校世界史に対する批判は枚挙に暇がありません。

 

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

 

  高校の勉強というのは、中学のころより、格段にむずかしい。壁があるのだ。世界史だけでなく、数学も、理科も、英語もそう。学校を頼りにしていてはダメで、自分の力で壁をぶち破る気概が必要。

 それにしても、世界史はあまりにとりつくしまがない。けっきょく、自分も、受験科目にできなかった。参考書も、いいものがなかったし。

 ただ、古代史からまんべんなく…という方法をやっている人はそんなにいないだろう。19世紀なら19世紀にパラシュート降下して、そこをがっちり固め、それから広げていく、というふうじゃないのかな。

 都会の進学校のやつらは、どうやら語呂合わせで覚えるらしい、と知ったのが、もうずっとあとになってのことで、今さらアタマに入りゃしないのだけれど、参考書のたぐいはたまに読む。英語学をやってる人だってイギリス史は必要だし、ロシア語ロシア文学をやっていればやはり世界史の知識は必須。まして政治学、経済学、現代のことだけわかればいいというものではなかろう。そういう環境にないからといって何もせずになどいられない。

 英語もそうだったのだ。けっしていい参考書や教材が田舎の本屋に転がってなどいなかった。ただ、通信添削をやっていたせいで、主要事項は例文を丸暗記する方法でかなり覚えたというだけの話だ。ずっとあとになるまで長文は苦痛だったし、単語はおぼえられないし、no sooner had he left the room than~のたぐいは、いまでも少し考え込まないと訳し損ねる。ただし、こうした構文は現代の英語を読んでいるかぎりやたら出てくるものでもないので、英語力を全体的に上げていくうち、こうした事項に極端な苦手意識を持つことが次第になくなっていった。当時難しいと感じた旺文社の英文解釈の参考書は、今に至るも読みごたえがある。

 連休だが、もっと休暇っぽい気分になるかと思ったら、そうでもないな。ヒッキーもいいけれど、北海道育ちのお母さんは、本物の天才だった。


雨の札幌★藤 圭子