定義不可能な先行性としての「価値」~マルチ・ディスプレイをやってみたいと思いつつ
貨幣は使用しているうちに摩滅し、名目上の価値ではなくなる。実質的な価値と名目上の価値が分離する。だから紙幣で代用できる。紙幣は「記号」になる。
今朝はよく寝ていた。もう覚えていないが、明るい、いい夢見で、いつも通り自宅で寝ているのだと思って、それにしてもいいベッドに寝てるなあ…と目ざめたら札幌のホテルだった。
それから支度をしてチェックアウト、JRやバスやらを乗り継いで帰ってきた。今朝はまだ札幌にいたのが信じられない。
で、いま「しょし」と入力して「初志」ではなく「諸氏」と出てしまったが、本当に
「初志」からも「諸氏」からも遠いところへ来てしまった。この二十年ばかりがまさに走馬灯のように脳裏をよぎる。ずいぶん以前にモスクワの図書館で某作家の本の大半のコピーを取ってきたことがあって、自分では手に余るので他のかたに委ねてしまったのだけれど、そんなことはすっかり忘れていた。それをもとに翻訳が出たことがあり、そのお礼を言われたりしたが、もう何やら自分のことではないみたいな気がする。
札幌の大学では活発に研究活動が行われており、ここ数年、年に何度かお世話にはなっているからまんざら今ウラシマでもないのだが、このところ最初の大学で学んだ(学び損ねた)ことばかり考えていたせいもあって、自分の関心のありかは、文学プロパーの人らとは、かなりずれているのに気づくのだった。
最初の大学で学問らしい学問が修められなかったのは、自分が、自分に甘い怠け者だからだというのははっきりしている。が別の見方では、経済学自体がその核心に、子どもにはわからない〈定義不可能な先行性〉をはらんでいるからだ、とも言えはしまいか。
たとえば、上掲の本にこんな一節。
たとえば今ここに一〇〇〇円札があると、これはなぜ一〇〇〇円札として通用するかといえば、みんなが一〇〇〇円の価値があると思っているから。これを「共同幻想」といいます。これはなぜお金なのか。みんながお金だと思っているからだ、という説明しかできないの。[…]
この点。なまじ浅く納得してしまうと、あまりにあほらしくて、それ以上は経済のことなんか勉強したくなくなる。そこを、若ければ若いなりに自分の頭脳で一回徹底的に考え抜くことが必要ではないか。そうでないと、そのあとの剰余価値のことなど魂にも頭にもすんなり入っていかない。これは、簡単に言おうと思えばいくらでも簡単に言えて、価値は価値だから価値なんだ、という、それだけのことでしかないから。
もう昔のことだけれど、TVの教養番組か何かで、当時気鋭の社会学者が出てきてこのことにふいに触れた。「剰余価値というのはマルクス経済学にしか出てこない概念だが
すごく重要で(うんぬん)」といったこと。そこを今さらたどり直している。
ただ、経済学者の研究テーマの選び方の話として、「きみ、価値論は損だよ」ということはあったらしい。結局、形而上学になってしまうから、経済学としては完結せず、論文も書けない、ということだろう。どうもエソテリックで入りづらい。何を読めばこういうことが書いてあるのか。
パソコンにばかりお金をかけてはいられないけれど、このSurface Pro 3を大きなディスプレイにつなぐことをやってみたい気持ちは変わらない。Pro 4というのも出たらしいが、ちょっと手が出ない。
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