俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

三上隆三『経済の博物誌』の懐かしさ~伊藤つかさなんて今どうしているのか

「言語をもって単に事実伝達の手段と見ず、言語表現そのものが人間の事実である」とは鴻儒・吉川幸次郎の名言である。これを彼は独力で認識・形成し、それまでの広い見聞からも、それは自分の創造するところと確信していた。たまたま本居宣長の著作を読んでいるとき、宣長がすでに同内容のことをのべているのを発見し、落胆したという。

 

経済の博物誌

経済の博物誌

 

  本当にそういうことがあるのは、研究ということを五年、十年やったことのある人なら、たいてい知っているだろう。独創的な発見をした、と興奮して学会報告まで申し込み、その発表の前夜、たまたま読んでいた新着の原書で、そのことが述べられていたりすると、あいたたたたとなり、もう当日なんかしどろもどろの弁明に終始したりする。

 それにしてもこれは本当に面白い本で、今、類書があまりない。今の人は小ネタなどというらしいが、雑学・うんちくが満載。著者は経済学史がご専門か。そうなるとけっして経済のことだけ知っていれば事足りるというわけにはいかず、歴史一般や自国・他国の言語文化へもそうとう通じていないと研究が成り立たないだろう。この本はそのコアな本業ではなく、いわゆる〈余滴〉なんだろうけれど、一回読んで終わりにできるほど軽くない。

 今日はもう一カ所引いておこう。

 経済学はもちろんのこと、およそ学問といわれるものを身につけるための基本条件が外国語の習得にあるというところから、それだけに業者は関係図書の売上げ部数をのばすべく、『〇語に強くなる本』『涙なしの〇語』『〇語x週間』『単語百で〇語自由自在』等々、要するに苦労せずに楽しみながら外国語習得が可能ということを言外に匂わせるタイトル、キャッチ・フレーズの創出に頭を絞り、しのぎを削るわけである。だが、労なくして語学の上達なし、は不易の真理であろう。

 ぼくが最初に入った大学でも、入学してすぐ、上級生に案内されて何人かの先生の研究室訪問をした時、教授の一人が似たようなことを言った。細かい点は忘れたが、とにかく英語を伸ばしなさい、ということだった。「英語ができん奴は、ドイツ語なんぞもできゃせんよ」という、その先生の口調はやけにはっきり覚えている。2,3年生になったときも別の教授が、大学院進学希望者を念頭に、学生は数学はちょっとやれば比較的すぐ伸びるが、英語で苦労する者が多い、と言っていたはずだ。

 いや、もう忘れちまったことの方が多かったりもする。貨幣数量説なんて、この本を読んでおぼろげながら思い出す始末。

 いやあ、懐かしいが、同級生はみんな役職者とかになってるんだろうなあ。


伊藤つかさ 少女人形 (2013年12月)