スキップ・ビート~ぼくも「土俵に上がらない男」と呼ばれて
佐藤 柚木麻子の『伊藤くんA to E』[…]という小説があります。
「伊藤くん」は、そこそこの大学を出た千葉の大地主の子供で、予備校の先生をやっている。仕事もクビになったりするけれども、シナリオライターになる夢を持っている。しかし一度もシナリオを書いたことがない。何よりも嫌なのが人に侮辱されることなので、勝負に出てシナリオを書くようなことは決してしない、絶対に土俵に上がらない男。見た目はちょっといい感じだからもてるけど、実はとんでもないやつだ[…]
借りてきた本を、もう返す時期だ。五冊借りてきたうち、一番読みやすいこれすら読んでいない。
パラパラ見たところ、上の個所に突き当たる。自分も誰かのことをこのようにあげつらいたい気もするし、そういう自分が「土俵に上がらない男」呼ばわりだったのか…という気もする。
ただ、ぼくはつくづく宮仕えに向かない人間で、リーダー論とか組織論とかも、今さら読んでもこの身がどうにかなるわけでもないのだ。
例えば、組織で働くうえで大切な協調性、といったこと一つとっても、そこには努力や心がけでどうにもならない部分があまりにも大きすぎると今の自分は考えたりもする。無理して他人に合わせようともがけばもがくほど、挙措はぎこちなく、笑顔も作り笑いにしか見えず、ますます他人に疎んじられる、ということが、少なくとも自分の場合、どうしてもあった。どう転んでも「変わった御仁」のカテゴリーから抜けられない。
ただこれは、組織にとけこむ努力を徹底的にやったうえでの敗北の弁であって、そうでなければ、「石の上にも三年だ」「みんなしんどいのは同じだ」という空疎な叱咤激励に折れて、いまでも当たり前の組織人になる夢を捨てられなかっただろう。
コミュ二ケ―ション能力、という言葉も昨今よく使われる(上掲書のことではない)が、昔はそんな言葉、少なくとも一般にはなかった。今でもあまり無条件に濫用しない方がいいと思う。要は知らない相手に好感を持ってもらえるかどうか、ということがカギなのではないか。好感を持ってくれた相手は、多少なりとも親身に話を聞いてくれるし、理解しようとしてくれる。こちらがいくら論理的であろうと、相手が心を開いてくれなければ、話が通じる可能性は低い。そして、ことば以上に、外見や物腰といったことが、相手の心を開くうえではすごく大きい。そこに「人望」ということが微妙に絡んでくる。
官僚が、受験生時代の入試や模試の成績をいくつになっても自慢しあう「自己愛」ぶりが批判されているが、これは形を変えて広い意味での外国語産業などにも入り込んでいると思う。だから、他人事じゃない。
例によってはなし半分に読むべき本だろうけど、読んでおこう。
↓コード進行が今聴くとびっくりするほど新鮮だ。なつかしいな。