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俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ガールフレンド~共産圏アニメ研の論集届く

 もう一つの深刻な疑問がある。そもそも、個人でこんなに集めても絶対に読まない本もあるのではなかろうか。読みもしない本を集めるなんて全く無意味ではないのか。

 いや、そうではない。SFとは「実現しないかもしれないが、ありえるかもしれない世界」を描く文学である。読む可能性はゼロではない。一方で、学問の世界は完全な真実を目指すものであるから、百あれば百を解明しなければならない。しかし、人生においては百を目指せないこともある。その時、ゼロのまま終わるのか、百はなくとも80を目指すのか。そこが問われている。[…]

宮風耕治「私的ロシアSFコレクション論━ゼロ年代の出版事情とともに」、『共産圏アニメSF研究会論集』、二〇一七年二月、出版地記載なし)

 札幌からメールが来て、上記の論集を送りましたとのことで、明日着くかと思ったら、今日届いた。

 ロシア、中国、ベトナムチェコ北朝鮮といった国々のアニメ、SF、戦争映画などが取り上げられている。なかでもロシアSF研究者である宮風さんの論文は(これはアニメとは関係ないが)、在野の研究者らしく、限られたリソースでどれだけの範囲の本をいかに集めるかという蒐書哲学に貫かれた、濃厚な論文だ。自身の体験がふんだんに織り込まれているが、たんなるエピソードの羅列に堕しておらず、ソ連崩壊後のロシア出版史の風景描写たり得ている。

 で、現地で買う、日本の洋書店のカタログで買う、ネットで買う、しかもロシアのネット書店OZONのみならず、USアマゾンでロシア書を買うという裏技も書かれていて、集めたロシア語SF関連書が千数百冊という、その結論部分で吐露されているのが上記の一節。

 読みもしない本を集めるのは無駄、という極めつけの実利主義に対し、個人では限界があるけれども、それでも本を収集し続けるんだ、もともと文学は有限の生の中でという制約を受けた、限界含みの私的営為だったじゃないか、という人生観を対置する結論部分は、きわめて読みごたえがあった。

 「読む可能性はゼロではない」という一文。これが、この論文の全重量を支えている。生きている限り、そして手元に文学作品の現物がある限り、書物は読まれ、発火する可能性を秘めている。ここに、「今読まない本はどうせ読まないのだから」という通俗的な「断捨離」の原則をあてはめるのは、「文化的に見て」という限定もなにも必要としない、全き蛮行そのものだ。

 …いや、ぼくが熱くなる筋合いでもないのだが、老母がよく、学のある入植者のところに後妻さんが来て、山のようにあった原書をすべて燃やして処分してしまったむかし話をよく語るもんだからね、つい。

 二月が終わる。二月逃げる、というほど速くもなかったけど、ほっとする。語学徒の冬学期、大詰めだけど、単語集とか、問題集とか、どーすんの。完全に〈ひとり原書講読〉モード。


オックス「ガールフレンド・ライヴバージョン」

 

 

 

ロシア・ファンタスチカ(SF)の旅 (ユーラシア・ブックレット)

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