俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

春風のいたずら~マキャベリにおけるフォルトゥナとヴィルトゥ

 電車に乗っていますと、競馬新聞を一生懸命読んでいる人をよく見かけますが、競馬でも、あの馬はどろ沼に強いんだとか、騎手がどうだとかを知って、はじめて賭けができます。たくさんの競馬新聞をかかえ込んで比較研究をする、というのは少々オーバーかもしれませんけれども、違った競馬新聞はそれぞれ違った予想を立てている。そういう違った予想を立てられるのは、それ(予見)に必要だと思われるデータと、そのデータの組み合わせ、あるいはウェイティングの違いというものが、そこにあるからでしょう。そこで予想が違う。それぞれ違う予想をのせた新聞を照らし合わせながら、そこに含まれている諸事実を、なんとか自分なりにつかみ整理して賭ける。それでなければ賭けといったって、要するに偶然に身をまかせるに過ぎない。知って知って知り抜いたうえ、やっぱり最後に賭ける、それが賭けであります。[…]

 

社会認識の歩み (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

 

  もう古い本だけれど、再読というか、はじめて何が書いてあるのか理解しながら読み返している。

 最初に行った大学で受けた社会思想史の講義は、これとは別の本が教科書に指定されていたが、講義自体のネタ本は多分これだろう。マキャベリ君主論』を論じたところは、強い既視感がある。

 フォルトゥナというイタリア語はもちろん英語のfortuneで、運命ということ。ヴィルトゥというのはvirtueで、「徳」という意味だが、ここが肝心だ。マキャベリの言うヴィルトゥ=徳というのは、襲いかかってくるフォルトゥナ=運命を「投げ飛ばし投げ飛ばし操作する、そういう主体の働き」だという。音楽でいうヴィルトゥオーゾ=名手という語にもこの語幹が含まれる。力量、とか、才覚、という語が思い浮かぶ。

 このことから思い浮かぶのは、この、人間を外側から規定するフォルトゥナと、それを主体的に操作するヴィルトゥという図式が、社会科学の歴史の中で連綿と繰り返されていることだ。地理学というのはぼくは専門にはやったわけではないけれど、やはり外的要因が人間の生活を規定するとする環境決定論と、人間は外的要因に働きかけてそれを操作できるとする環境可能論という二つの立場があるということは習った気がする。

 経営学のほうでも、今はどうか知らないが、外的環境に最適に適応させるかたちで企業経営を考えるコンティンジェンシー理論と、それを修正し、企業の積極的な主体性をより重んずるネオ・コンティンジェンシー理論というのがあると習った(が、むかしのことなので、今の経営学ではどうなっているか)。

 そして、それをいうなら、土台=下部構造=経済が、政治、文化、宗教などの上部構造を規定する、というマルクス経済学と、上部構造が経済のあり方を規定することもあるというヴェ―バー社会学という図式が、そのまんまマキャベリのフォルトゥナ=運命とヴィルトゥ=徳の相互関係の変奏なんじゃないのか。上記の引用で「賭ける」という語が用いられているのは、この、人間の積極的な主体性のことを言っている。

 最初の母校はもうすっかり縁が切れ、訪ねていっても知っている先生はひとりもいない。ヴィルトゥという語を繰り返し説明していた先生は、とうに退官され、ご存命としてももうかなりのお歳になっていることだろう。あの科目は、名称は変わっても、やはりどなたか若い先生が教えているのか。あれはもっと勉強しておくべきだった。社会のありかたやそれを研究する学問の上っ面はここ2,30年でどんどん変化しているが、それを考えるうえで上記の図式が有効なのは、ぜんぜん変わらないのではないか。

 明後日から三月、というこの時期、本州の春先の空気が恋しくなる。こっちはまだ真冬をちょっと過ぎたくらい。入試で海を渡って、本州の街の八百屋さんの店先がとても珍しかったのを憶えている。あと、軒の低いアーケードとか、古本屋とか、輸入レコード店とか、喫茶店とか、はじめて聞くわけじゃないがやはりびっくりさせられた東北弁とか。

 あの時点で、入学したらまず語学、という強い自覚を持っていなかったのが、田舎の高校生の哀しいところ。それを挽回するためだけに、いったい何年かかっていることか。今年の桃の節句はちらし寿司が食べられるといいなあ。


(貴重)山口百恵 春風のいたずら