ポケベルが鳴らなくて~柴田元幸氏が初めて読んだ原書はオーウェル
最初に通読したのはジョージ・オーウェルの1984(邦訳『1984年』)です。大学3年になったと同時に休学して、イギリスを旅行してヒッチハイクしていたとき、全然車が来なくてほかにすることがなくて道ばたでずっと本を読むしかないっていう状況があって、それで気がついたら読み終わっていたわけです。
今日届く。書きこみのある古本だが、内容を知りたいだけだったのでじゅうぶん。まだ全部目を通していないが、柴田元幸さんが以上のようなことを語っているのはおっとなる。そして、そのときの気持ちはよく覚えておらず、シャンパンを買ってきて祝うということもしなかったが、
でも1冊読み終えたという自信や満足感って、客観的には別に価値はないんだけど、個人的には日々そう得られるものではないので(笑)、あるといいですよね。
としているところなんか、ぼくなんかは、自分を肯定してもらっているようでとてもうれしくなった。「個人的には日々そう得られるものではない」という部分がミソで、プロの英文学者にとっても原書を読み切ることはそのつど意味のあることであり、それくらい当然でしょ、といった虚勢がまったくなくて、安心するわあ。この大先生にしてそうなんだ。
で、氏の談話をすべてひいているわけにもいくまいけれども、洋書入門に際して、最初はこれから入るといいといった定番というものはない、と語っているところも面白い。
[…]若いうちは見当はずれの無謀なことを色々やって失敗に終わることも、何らかの役に立っているんじゃないかと思うんですよね。なんでもマニュアル的な情報を得て、ちゃっちゃっちゃと達成していく人生はどこか貧しいんじゃないかと(笑)。
でありながら、あえて言えばオースターとイシグロ、という点も面白くて、オースターは書庫にあるはずだが、いつだが探しに行ったら見つからなかったんだわ。
ぼくは、露文の大学院に行き、ロシア語教師をやった人間だ。だが、これは人にもよるだろうけど、大学院を出て駆け出しの講師になったくらいのころは、自分の専門は〇〇語です、などとエラソーに言えるほど確固としたものはまだないんじゃないだろうか。ぼくは赴任した先の最初のアパートでジェイ・マキナニーを読んでいたときのことをはっきりおぼえているが、べつに特別なことをしているとはまったく思わなかった。
実は英語を読むのが(英語を読むのも)楽しみという、〇〇語専門家はたくさんいると思われる。日本では一般に、学校でまず習う外国語は英語なのだから、おかしなことでも何でもない、ぼくごときが口幅ったくなくそう言えるほど、英語で本を読むことが一般化してほしい。
語学徒生活はちょっと中断、と言いつつ、もう原書講読に専念してもいいのかもしれず、迷いつつ息抜き。文化放送の『ミスDJリクエストパレード』、ぼくと同年輩の方々がたくさん聴いておられるようで。