俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ルージュの伝言~渡部昇一の古い本は、また書庫にしまっておこう

 学問に志した人の多くは、一生をふり返るとき、結婚のために、青年のころ志したことのうち、何一つ思うようなことができなかったことに暗然とするであろう。ただ、学校で教えるという教育活動をし、学校行政にたずさわったという慰めがあるので、みんな心理的に助かっているのである。

 

知的生活の方法 続 (講談社現代新書 538)

知的生活の方法 続 (講談社現代新書 538)

 

  この本はやはり30年くらい前読んで、いろいろ面白いとは思いつつ、著者の政治的感性うんうんは別に、ところどころ、そんなものかなあ、となかなか同意できないままだった気がする。財産とか、収入とか、そんなことばかり書いて…という反発もあったかもしれない。多くの若い院生などは、「自分はそうはならないさ」と内心たかをくくりながら読むのではないだろうか。

 論文を書けない学者のことを悪く言うのはそれら院生が元気な証拠だからいいのだが、現実にぶつかると、あああの時見聞きしたのはこのことか、と思い知らされるということもままある。

 ぼくは結婚しなかったから正確にはわからないのだが、多くの研究者が研究者同士で結婚するのはこのことが関係しているだろう。大学の教員の生活の実態を知らない人の多くは、研究者は平日の日中にたっぷり時間をもらって研究にいそしんでいると思っているかもしれないが、それはちがう。研究所勤務のような場合を除いて、多くの人は平日の昼間にそんな余裕はない。書いている人は、帰宅して、夕食を終えて、寝るまでの数時間、なんとか時間を捻出して論文を読んだり書いたりしているのだ。そこのところを理解してくれる相手と結婚できる人ばかりではないだろう。論文なんか、昼の間に研究室で書いてくればいいじゃないの、と考える人が多いのだろうことは無理からぬことだが、それは研究者の日常の現実と合致しないのだ。ぼくはたまたま男性だが、女性の研究者は、理解ある相手じゃないと、一層たいへんだろう。

 上の点は、当時納得できず、今読んで腑に落ちる点だ。

 半面、当時はうなずきながら読んでいたのに、時代が変わって合わなくなっているところも多い。著者は「恒産」という言葉を多用し、経済的に自立した人は、自分の良心を曲げずに知的に充実した人生を送れるということを説く。そして、日本では職につけば滅多なことではくびにならないから、それも疑似的な「恒産」と見ていい、と論を進めるのだが、これなどはもうずいぶん昔の話だろう。とくに、大学の教員は日本ではみんな初めからテニュア(終身在職権)つき、というのは完全に過去の話で、「沈香も焚かず屁もひらず」で、何もしなければ年功で人事が進んでゆく、といったことはもうとうになくなっている。

 ぼくは、やはりどこかでこれの影響を受けていたのか。次の一節、たしかに覚えがある。

 ヒュームやハマトンが求めたのは本物の恒産であるが、現代の日本においては、疑似恒産があることを指摘しておきたい。それは日本の現在の就職そのものである。会社や工場が倒産するという非常のばあいをのぞけば、今の日本でクビになるということはまずはない。とくに公務員や教員はそうである。そして給料はヒュームやハマトンが遺産から得ていたものよりははるかに多い。それに政治的・宗教的理由で職をやめなければならないということもまずないのであるから、ヒュームやハマトンなら天国だというであろう。

 「就職」というのは、ぼくらのころの大学院生にとってはまだ「大学の専任教員になること」の意味で、寮で一緒だった多くの理系の院生はそういう意味での就職を果たして、全国の大学へ散っていった。文系のぼくも、何とかそれにありつき、安堵し、一時期は有頂天だった。

 ただ、今はもうその職場にいない。

 教員や公務員は犯罪を犯さない限りはクビにならないもんね、と公言して雑用のたぐいをやらない先生がいたが、やはりもうあの職場にいない。職のために変節を強いられることは、今の日本ではむしろ普通だろう。ヒュームなどの例を紹介しているところはイギリスの知性史の風景としていまでも面白く読めたりということはあるが、それを現代日本にこじつけた上の一節などは、もう完全に古い。

 今回、年末に書庫から出してきた本の一冊だが、また書庫に戻しておこう。

 CCガールズのことは、CDかDVDでも買ったらまた何か書こう。白いブラウスにタイトスカートの喫茶部の藤森夕子みたいなお姉さんのことを、今でも覚えている。何もかもむかしの話だ。


観月ありさ C.C.ガールズ ルージュの伝言 1992