俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

汚れなき悪戯~ロシア・シンボリズム第二世代など

シンボリズムの第二世代━━未来は同じ年に生まれた二人の若い詩人、アンドレイ・ベールイ(一八八〇-一九三四)とアレクサンドル・ブローク(一八八〇-一九二一)、さらに彼らより年長だが彼らと同年の一九〇三年に文学活動をはじめた作家、ヴャチェスラフ・イワーノフに属していた。各人各様に独自の天分をもっていたが、三人ともウラジミル・ソロヴィヨフの影響をうけており、それも彼の理論的な著作より詩の影響が大きかった。彼らは思想をもたぬ耽美主義者とちがい、また哲学者でもあった。彼らはメレジコフスキイの抽象的な図式と彼の「歴史的教会」についての議論を払いのけ、自分たちの好奇心、あるいは個人的な神秘主義的経験に自由に没頭した[…]

 

ロシア・ルネサンス―1900-1922 (1980年)

ロシア・ルネサンス―1900-1922 (1980年)

 

  なに、ぼくはベールイなんか読めるほどの語学力はずっとなくて、どころかせっかくこんないい本があるのに、それすらろくに頭に入らない、そんなあわただしい暮らしだった。いまはもうない研究室の、入った左手の、書棚のまんなかあたりに、ずっとこれは並んでいた。ギリシャ神話の関連書や、やはり今はもうない小樽の美術館で買った絵葉書や、比較文学の本なんかと一緒に。ソファがあって、よくさぼって寝ていたが、手を伸ばすとこの本があった。なつかしいなどとは思わないようにしているけれど、やはり毎日思い出す。

 ベールイは、読みかけてはいたのだ。冬のある日、水道が凍結し、それを放ったまま外出、帰宅したら気温が上がって、水道の水がシンクからあふれていた。床に平積みにして置いていた原書、びしょぬれ。

 いまでも、書庫へ行けば、あのときの本があるはずだ。今日は行き損ねた書庫。年内に雪かきして開けて、見てこなくてはならない。主だったものはだいぶうちの中にもって来たのだけれど、逆に家の中が書庫みたいになってしまって、急に使わない本は戻さなければならない。

 英語週刊誌届くが、またも合併号で、こうなったら、隔週の、月二回発行でいいんじゃないの。速報性じゃCNNにかないっこないし、突っ込んだ分析には二週間ほどの時差があった方がいい。そのほうがこちらは読みやすいし。

 研究室は思い出すが、そこで研究をしていたという実感はまったくなくて、ただじりじりと時間だけ過ぎていった。無駄に過ごしたようにも思うし、自分の中でいろんなものが発酵するのに、それだけ時間がかかったともいえる。かつてお会いした通訳の女性は、ロシア語をはじめて二年目にはもうプーシキンを読んでいたというが、ぼくはどうもそういう人たちの同類ではない。何か外国語をはじめても、文学を読めるようになるまでは、なんだかんだで一〇年ほどかかる、と書いていた人がいて、どっちかというとそれに同意したい。まだまだだ。これからだ。


汚れなき悪戯 / 豊川誕