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俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

冬物語~内田義彦の『読書と社会科学』を思い出しつつ

  私の娘は、子どものときから鳥が好きで、いろいろ迷った末、理学部の生物学科に入って、その授業を受けながら、鳥ひとすじの探求を続けてきたのですけれども、二年生になったとき、専門科目に入ったある日、「面白かった」と目を輝かせて帰ってきました。電子顕微鏡を見せてもらってたいへん面白かった、大学ってやっぱりいいな、というのです。

 思いもかけぬ物質の構造がこの眼で見えた、学問の世界を垣間見ることができた。その感激は同感できる。目を輝かして帰ってきたのも無理はありません。学校で「勉強」をはじめて以来、滅多に見せたことのない目の輝きでした。娘のために喜ぶと同時に、理学部でなく経済学部の教員として、少々情けない思いをしました。いまでもよく思い出すんです。

 

読書と社会科学 (岩波新書)

読書と社会科学 (岩波新書)

 

  随分以前にこのことは書いたけど、改めて拾っておく。

 この問題で悩んだ経験のない文系の研究者は、まずいないだろう。そこの部分。理系の教員が鬼の首を取ったようにこのことを振り回し、大勢が複雑そうな微苦笑を浮かべて沈黙する、という場面に、いったい何度、立ち会ったことか。電子顕微鏡を見せてもらえる学生が、大学っていいな、と感激していることを可能にしているその同じ構造が、圧倒的なディスアドヴァンテージとして文系の教員と学生にのしかかり…という、文系と理系の非対称性の話は、何度かここに書いている。 

 その意味でも、年が改まらないうち、10月の学会のこと、あと一つだけ書いておく。じつは文学系ではなく語学教育系のセッションがすごく面白かった。小樽の大学の先生がコンピューターの知識を前提としたウェブ上での小テストの方法を語った報告。聞いていた先生がたにjavaなどのじゅうぶんな知識を持った人がどれくらいいただろうか。それでも、何を言わんとするかは、なんとなくひしひしわかる。

 で、質疑がたいそうな盛り上がりだった。ちょっとプログラムすれば、ロシア語の単語をスマートフォンなどで自動音声としても聞けるのだそうだが、じゃあ、力点(アクセント)は機械は正確に読んでくれるのか。ロシア語で「二つの山」と言った場合、ロシア語の知識がないとたいそう不可思議にも聞こえようが、「二つの」に続く「山」は単数の生格という形が続く。この単数生格が、綴りでは困ったことに複数主格とまったく同じで、ただ力点だけが違う。そこが決定的なんである。だから、ナイーヴな自動音声があっ「ふたつの」、だから複数形、と判断して複数形の力点で読み上げるとなると、学生にまったくのウソを教えることになるのだ。

 今からコンピューターのことを勉強するのも可能と思うが、ぼくはドストエフスキーの電子テクストをつくっている研究室にいて、それを手伝いながら、その手法をみすみす習得し損ねた人間だ。それは、電子テクストは確かにどの名詞が何回使われているか、といったことを明らかにしてくれるが、それが書かれたときの作家の思い入れの濃淡とか、どこがうわの空の書き飛ばしで、どこが入念に推敲された部分かとか、そういうことはわかるのか、といった疑念があったからだ。

 むろんそんなことは、やっている先生がたは百も承知で、それでもそれまで本国の学者が手作業でやっていたそうした仕事を自動化することによって、人間の認識はそのうんと先へ行ける、という強い確信があったればこその、あのプロジェクトだったろう。『罪と罰』のなかである語がはじめて使われるのは第何章である、といった通説を覆すことによって、バルトの「テクストの快楽」を背理法で証明してしまった面すらあって、そういうことを面白いと思うには、誰の目にもわかる科学らしさの不在に耐えて、長期間の作業/思索を続けるemotional maturityが必要なのである。

 早起きしたいが、もう深夜になってしまった。本来の「しごと」とは別に、自主的な冬学期(語学の総復習)は続けている。とにかく続けること。


天地真理 ☆ 冬物語