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俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ポルトガルの春~読書会とジャムセッションと床屋政談

 僕らがやつた演奏はジャムセッション、すなわち即興演奏だ。特に決まりを設けずにみなが互いの音を聴きながらその場でリズムやフレーズを考えながら演奏してゆく。

 このスタイルは自由で楽しいのだけれども、すぐに飽きるという難点がある。また再現性に乏しく、あのときのあそこがよかったよなー、と言ってもう一度演奏しようとしても、なんだかなぞったような演奏になってそのときの乗りはけっしてでない。

 

真実真正日記 (講談社文庫)

真実真正日記 (講談社文庫)

 

  町田康はようわからんが、ときどき読みたくなって、しかしたいしたことが書いてあるわけでもないから、なんでおれはこんなものを読んでいるのかという気になりつつ、以上の部分は、確かにそうだよなあ、と拾っておきたくなった。

 いや、先日来の、読書会/研究会の話。読書会のための読書会、研究会のための研究会になった時点で読書会/研究会に意味はないと思う、というか運営の労力に見合う果実がない。蒙をひらかれる、とか、目の前の壁が崩れる、とか、そういう瞬間というのがあってこその読書会/研究会であって、それにはやはり、しっかり準備した報告者の話があった方がよくて、ただ集まってああでもない、こうでもないとやっていても、飽きちゃうんじゃないか。

 いや、読書会、例えばひたすらレーニン『帝国主義』を読む、ドストエフスキー『作家の日記』を読む、あるいは『作家の日記』を論じた難解なG.S.モーソン"Boundaries of Genre"をただとにかく字面を取りつつ読み進めていく、その過程にだって、蒙をひらかれる瞬間がつぎつぎ現れてくる瞬間というのはあって、それを追い求めてある種の人々は読書会/研究会狂いになっていくのではないか。その機微が、なんか上のジャムセッションの話と似ている、と思う。

 こう書いていて、この問題系はどこかで〈床屋政談〉の問題に通ずる面がある、とも気付く。かつてテレビ朝日の討論番組『朝まで生テレビ』から火がついたテレビの中での時事討論の一般への流行は、「大学教授なんてオレでも務まる」という予断を日本中に広めた点では功罪のうち罪が大きいと思うが、あれが妙に、ある種の読書会/研究会と重なって見えるのは確かなのだ。

 ただここで功罪という言葉を使うのは、功の面もあることはあると一方では思うからで、うわ~俗悪だと辟易しつつその種のTV討論番組を観ていて、はっとするほど本質をつく議論にぶつかるときがある。それがたいていはしょせん時局談議と切り捨ててくだせえと初手から反知性的な外観を装っていることもよくあって、こうなると、大げさに言えば知的営為の本質としての床屋政談ということを時々考えるほどなのである。ただ、理髪店にはいかにも失礼な表現ではあって、でもそれに代わる適語というのもないので、しかたないのだ。

 ちょっとまとまらないのだが、はた目には、何が楽しいんだか、というものの中にこそスリルがある、という点で、表題の三つのものには共通するものがあるように思う。自由で楽しいけれどすぐ飽きる、いや、すぐ飽きるけど、自由で楽しい…

 スカイプで外書講読会、スカイプで床屋政談、スカイプでジャズバーごっこ…まだ11月だが、もう勝手に、春へのカウントダウンを始めよう。


Oscar Alemán - April in Portugal