俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Desafinado~ぼくの勉強はつねに「ひとり読書会」なのか

━━ 先程名前の出た西郷信綱さんのところでも『マルクスエンゲルス文学・芸術論』[…]を読む会をやってらしたんでしょ。

山口 それは、東大の横にある学士会分館、そこの二階でやったんだね。人数ももっと増やしてね。

 

回想の人類学

回想の人類学

 

  この種の読書会の話、たまに目にするのだが、読書会というものがどういうものか、実はぼくは知らないのである。

 読書はひとりでするのが圧倒的に生産性が高い、と自分なりに思っているから。あるいは、辞書などレファレンス類が手元にあれば、ひとり読書会ができてしまう。

 ただ、暗黙の約束事や背景・予備知識を必要とする本の場合は、たしかに、指導者がいたり、仲間どうしで教え合うのがいいということなのか。いずれにせよ、暗中模索の青年たちにこそふさわしい営みなのかも。

 いや、どこぞではかつて、教授たちがそろって、ジェイムズ・ジョイスを一回に数ページのペースで読む研究会があった、などと聞いたこともある。が、ぼくが院生のころは、その種の読書会的研究会は、絶滅状態だったようにも思う。

 いやそうではなく、告知がなされないだけで、仲間うちで集まって、古典とされるが実は難解な文芸理論書を今さらのように読む会が実はひそかに行われている、という話をどこかで聞いたことがあったような気がするが、あれはいつのことだったか。

 最初に行った大学では読書会、と言わず、自主ゼミ、と言っていた。たしか教授の一人が、学生時代、大塚史学ゼミや宇野理論ゼミを自主的にやっていた、というのを学内誌か何かで読んで、個人的にはそれが自主ゼミ/読書会のイメージなのである。大塚久雄を読む、とかだったら、若者の読書力でもできそうな気はする。ジョイスを学生だけで…というのは、たぶん迷路に入ってしまうだろう。スピヴァク、サイードなんかを読むなら、ネタ本があればなんとかなりそうではあるが。

 上掲の書でも、以下の部分では「自主ゼミ」の語が見える。

━━ そのとき山口さんは教えてはいらっしゃらなかったんですか。

山口 うん、教えてはいなかったけど、自主ゼミをね、大塚くんたちがデュルケームの『社会分業論』を読んだときにつきあったんだよ。

 

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 もう一か月以上前の学会のこと。少し書いておく。

 何といっても印象的なのは、世代交代がずいぶん進み、かつて新進だった者らが指導者の地位にのぼり、髭をたくわえたりして、堂々たる貫禄だったことだ。あるいは、当然出てくるだろうと思っていた人の少なからずが、校務多忙などだろう、そもそも出席していない。で、うんと若くて名前も顔も知らない人らが、中堅の位置を占めていた。

 あのときも、バスを降りたら、老母がちゃんと待っていた。


Stan Getz. (1927-1991) : Desafinado & The Girl From Ipanema