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俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

エミ子の長いつきあい~新聞を読まない人間に生きる資格はないとソ連小説の詐欺師は言う

”People who don't read newspapers have no right to live. I'm sparing you only because I still hope to re-educate you"

 

The Golden Calf

The Golden Calf

 

  ほとんど寝落ちしながら読んでいたイリフとペトロフの英訳本の一節。新聞を読まない奴に生きる権利などない、と、詐欺師の主人公が居丈高に言い放つ場面。おっとなって拾っておいた、それは先日、NHKのBSの『世界のドキュメンタリー』でフルシチョフがかつてアメリカを訪れた時のことをやっていたからだ。たしかどこぞの市長が歓迎レセプションで、フルシチョフの言ったとされる威嚇的な言葉を引いて、客人であるフルシチョフを半ば揶揄するような、非難するようなスピーチをしたのだ。それに対しフルシチョフは、その言葉が誤って広まったことについては数日前の記者会見でちゃんと説明した、なのになぜそんなことを持ち出すのか、アメリカの市長は新聞を読まないのか、ソ連では新聞を読まない地方の政治家などいない、そんな奴は再任されないだろう、とやり返す場面があったのだ。あれはフルシチョフという人の、激しやすいが、どこか憎めない人柄がよく出ていて、録画すべきだった。

 むろん、新聞などウソばかり書いてあるから読まない、という良識のあり方というのも一方ではちゃんとある。とくにロシアでも、ソ連時代はそうだったようなことをきいたことがある。そこまでいかずとも、時事的なことに過度に左右されないよう、新聞雑誌のたぐいはあえて読まない研究者というのは日本にもいる(テレビを持っていない先生がたというのは今でもいると思う)。

 さらには以下のような新聞というものをあまり高く買わない物言いもある。

「ナイジェリアの人間は学校出た途端に新聞しか読まなくなるんだから、また仕方ないだろう。」とアフリカで古本屋にめぐり会う事はあきらめていた。

 

回想の人類学

回想の人類学

 

  で、TVのお笑いタレントのことはよく知らないのだが、その種の人の誰かが一流大学卒で、いまでも帰宅すると日経新聞を熟読するのを日課にしている的なことを耳にしたが、これも、けっして英字新聞でないところがぼくなんかには面白かったりするのである。

 ということで、英語週刊誌は来年の四月まで来るはずだが、そのあとどうするか、すこし考えたりもしている、今日この頃。『デイリー・ヨミウリ』は紙名が変わったらしく、それでもいいからまた取ってみたい気がする。『ジャパン・タイムズ』は、かつて問い合わせた時、その御住所ですと四,五日遅れの配達になりますが…と言われたので、これは問題外だな、と思う(最近は知らないが、改善されているとも思えない)。

 むろん、海外紙の電子版でもよく、『ワシントン・ポスト』を激安で一年間読ませてもらったのはありがたかったが、でもなんか紙で読んでるのと違う感じはしたのだよな。紙の新聞ほどにありがたく読むことができないというここが、ぼくの限界かもしれない。

 ラジオも好きで、以下のものはそんなに聴いていた記憶はないのだが、七〇年代~八〇年代の空気感が封じ込められていて、こういうものに触れると、空費された過去への思いが募る。受験勉強に向かない高校でひとり悩んでいたこととか、とにかく語学や思想や歴史をやりたかったこととか、サラリーマンにはなれそうもないと思いつつ、誰にも理解されなかったこととか、大学院進学は身の程知らずと言われそうで言い出せなかったこととか、ドイツ語が身につかずに悔しかったこととか、音楽のこととか、文学のこととか、そりゃあもういろいろあった。提供社の山野楽器の名が、胸キュン。


エミ子の長いつきあい 1978年1月13日