好きよキャプテン~セメスターのロシア語
これを返却に行ったら、もう新規には借り出さず、手持ちの本をやっつけることに取り掛かろうかと、そのことを思いつつ、なかなか返却にも出かけられずに今日も別の用事で終わってしまった。
で、上の本のことは少しおいておいて、先月の学会のこと、もう少し、メモ代わりに書いておく。
11月の中旬は、ロシア語の授業、きついころだろう。この一か月がやけに長く感じ、果てが見えない。ぼくのばあい、前期はうんとやさしいことしかやらず、周辺的なことを教えて外堀を埋めるのに費やしていた。それは自分なりに合理的だと思ってやっていたことだが、実は思った程の効果は得られず、学生たちはかみ砕いたイージーな教え方になれてしまって、後期に文法事項があれもこれも出てくると、そこであっけなくやる気をなくしてしまうのだ。
その点で、先日の学会の大きな賞を受賞した先生の講演はとても参考になった。なんと、セメスター(学期)をまたがず、前期なら前期で文法を一通り教えてしまうのだという。これには驚いたが、そういえば、勤めていたころ、そのやり方で書かれた教科書の献本は確かに受け取って、ひと通りながめたことがあった。
きわめて高い基礎学力をもった学生を前提とした教科書で、とても自分のところでは使えない、とその時は判断したのだけれど、先日、なぜそのようなメソッドを取るに至ったか、講演を聴いて、なるほどとうなずけるところも多々あった。
ひとつには、夏休みの壁。かりに、文法は一年かけて教えればよい、という方針をとっても、夏休み明けの学生は、前期にやったことをほとんど忘れているのが普通だ。むろんきれいさっぱり跡形もないわけでもないが、アルファベット、名詞の性、基本単語などをおさらいするのにかなりのエネルギーを取られる。これならなるほど、前期にざーっと文法をひと通り教え、一定の完結感をもたせて前期を終わった方が、定着もよく、レベルの高い学生の期待にもこたえることとなるだろう。
ただし、何をもって「ひと通り」とするかは、思い切った割り切りが必要だ。動詞の第一変化、第二変化は教えるが、「愛する」「ほしい」は不規則な要素が入るので教えない、中性名詞も、複数形でアクセントが移動するようなものは教えず、ふつうの初級教科書でまず登場しない「沼」を使う、といった工夫が紹介されていた。これなら、週二コマの語学であればできないことはないなと思ったが、まさか週一コマ、一セメスターでこれをやろうというのではないだろうな、と、その点は聞き洩らした。
ぼくが進度のゆっくり過ぎる語学教師だったのは、ひとつには、赴任当初、教え方がわからず悶々としていた時、理系の大学院生だった男の子が、「前任の○○先生は、前期は『こんにちは』『さようなら』だけ毎時間くりかえすだけの授業でしたよ」「男性名詞とか女性名詞とか、秋になってからようやく出てきましたよ」といったことを教えてくれたことが大きい。あとは与太話だった、とまで聞いたかどうかは覚えていないが。あの年、はじめて担当した学年の授業はまったくのひとり相撲で、何の成果も生まなかったことは、ちょうど今ごろ、11月の半ばごろには明確だった。そして、次の年は、もっと学生の理解度に沿って、ゆっくりやろう、と考えていた。
もちろん、このことは「進度」だけが問題なのではないだろう。どんどん進む授業のやり方でも、きちんと教えることはできる、と主張する人たちも少なくない。どんなにゆっくり丁寧に教えたとしても、やる気のない者は結局わかろうとせず、ついてこない、ということもある。教師が、そのことを気に病む性格かどうか、というのも大きい。
学会の講演では、セメスター制への移行にあたって大学の当局者との会議で決意のほどを述べるよう言われた先生が、「ロシア語では一セメスターで文法をすべて教える」と断言し、ドイツ語教師らから失笑が起こった、という話が披露されていた。しかし、まさにそこなんじゃないか。責任は、ぼくがとる。このような改革には、そう決然と言い切る人望あるリーダーがぜひとも必要だ。そのような人のもとでなら、非常勤講師を含めた教員が一致団結し、一セメスターで、ロシア語の文法を、過去形も未来形もすべて教える、といった一見不可能なことが、ひょっとしたら可能になるのかもしれない。これは、経営学でいうホーソン実験みたいなもので、学生の動機付けもさることながら、教員の側のモラール(士気)をどう保つか、という問題であるとも感じた。
そのことは、履修者が増えたのは非常勤の先生がたの努力が大きい、という講演の結論に鮮やかに出ていたような気もするのだった。むろん、困難は多々あったに違いないが、愚痴も我田引水もいっさいない、後味のいい講演だった。