ベートーヴェンと蓄音機~語学徒はどんな音楽を聴くべきか
このところ私の難聴は、少しずつ悪い傾向をつよめているように思われる。悪い傾向とは、つまり低音がきこえ難[にく]い。FMで収録したバイロイト音楽祭の録音テープを、例によって正月から聴き直しているが、テープ・ヒスがまるでこの頃聴こえなくなった。ヒスが消えるので俺の耳はドルビーを掛けてあるようなものさ、負け惜しみを言ってみても、さて、ジークフリートの、葬送行進曲である低弦のユニゾンが聴こえないのでは何とも憂鬱である。コントロール・アンプで低域を持ちあげては折角の演奏が死んでしまう。例外なしに人間の耳は歳歯を加えるにつれ、高音への感受性を鈍化されるそうだから、いっそ、はじめから高音のきこえ難かったベートーヴェンのほうが幸せではあるまいか。
ベートーヴェンと蓄音機(オーディオ) (ランティエ叢書 (9))
- 作者: 五味康祐
- 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
- 発売日: 1997/11
- メディア: 文庫
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これはとても楽しい本で、剣豪小説で知られた作家がじつは大のオーディオマニアのクラシックファンで、人並みにステレオを聴ける身分になりたいから売れる小説を書くようになり、高価な装置をそろえてクラシックざんまい…という、エッセイ集。
上の一節も、今どき流行らないFMのエアチェックのことが買いてある。70年代には、れっきとしたオーディオマニアも、さかんにエアチェックをやっていたらしいことがわかって、収穫だった。
むろん、当時だって、LPをそろえるのがマニアのマニアたるゆえんで、エアチェックだけで満足していては、マニアとは言えなかっただろう。しかし、NHK-FMで放送される、海外の放送局の録ったライヴ音源がきわめて貴重だったというのも確かだ。それはある意味、今でもそうだろうが、エアチェックなど、かつてのように盛んではなくなってしまったから、上の一節は時代の刻印を帯びていて、今となっては貴重な証言だ。
何度か書いたことがあるが、何かきっかけがあれば、自分もクラシックのマニアになっていた可能性はある。たとえば、この五味氏のオーディオエッセイにきちんと触れる機会があったら、そういうことは大いにあり得た。それくらい、独特の文化的香気がする。五味氏本人は酒飲みで、きわめて変わった人だったらしいけれど。
ぼくはクラシックのCDというのはたいして持っておらず、このところはネットのラジオでクラシックの局を流しっぱなしにしている。ありえたかもしれない、ぼくのもう一つのリスナー人生が、垣間見える気がして、なんとも感慨深いものがある。
こっち方面に行ってたら、外国語も伸び、教養あるお嫁さんも来ただろうか。
必ずしも語学力と教養の深さは相関しないのかもしれないが、西洋音楽の深い造詣と学識とが相関している例は何人か知っている。
星くずのような、という形容は置いといて、自主的な語学徒の冬学期、ほんとに雪が降ってきて、冬学期らしくなってきた。佳境に入ればいいなあ。まっさらな大学ノート18冊、待機させてある。