私の城下町~『経済学哲学草稿』の想いで
否定の否定のうちに存している肯定〔Position〕、あるいは自己肯定と自己確証は、まだ自己自身に確信のない肯定、それゆえ自分との対立物をになっている肯定、自分自身を疑っており、それゆえ証明を必要とする肯定であり、したがって自分の現存によって自分自身を証明してもいないし承認されもしない肯定であると解されている。それだから、そうした肯定にたいして、感性的に確実な肯定、自分自身のうえに基礎をもつ肯定が、直接にまた無媒介に対置されるのである。
アリストテレス『詩学』をさがしに書庫へ。しかし、ない。かわりにこれをもって来た。むかしの自分の字で「経済学哲学草稿」とマジックで書いたしおりがはさまっていたのがこの個所。たしか最初の大学の二年目のころだったか。
とにかく、途中まで読んだのだ。読んだのだが、指導者もなく、とにかく難しかった。で、ここで投げ出してしまったようだ。
上の個所は、今ならすごくわかる。否定の否定は必ずしも肯定ではなく、絶えず自己確認がなされないと亀裂が走り崩落してゆく危ういつじつま合わせであるということなら、ヘーゲルを持ち出さなくとも、人生経験から了解可能なことだ。
これを読んでいたころは、何を考えていただろうか。そう、『経済学批判』は読み終えて、しかしそのことを語り合う仲間もおらず、相談に行ける先生もなく、なんとなく、空しい日々だった。社会思想史の先生は、フランスの思想の専門家だったろうか。
あと、勉強は自分でするもの、という考え方が、当時はまがった方向に出てしまい、講義から足が遠のいてしまったのが痛かった。そこをまがりなりにも通過していない学生など、先生のほうでも相手にするはずがない。
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BSフジでドラマの再放送を観ることがたまにあるが、篠ひろ子の「夏木みどり」のシリーズはなかなか好きだったりする。今日やっていた『モンロー殺人事件』は、夏樹陽子演ずるライヴァル女優との根性のきつい意地の張り合いが見せ場だ。全編に流れるマリリン・モンローの唄が、あらためて聴くとよかったりもした。篠ひろ子のソバージュヘアといい、ついこの間だったはずの80年代から90年代のファッションの、無残な色あせかたが胸キュンだ。以下の「私の城下町」カバー、篠さんが唄ってる?