自由に歩いて愛して
先ほど述べた二〇一三年のグルジア訪問の際、私は現地の知識人と意見交換し、大学で講演もしたのですが、一〇〇人ほどの学生たちは全員、みごとな英語を話していた。サーカシビリ政権の功罪はあるにせよ、第一外国語をロシア語から英語に変更して約十年、この国はロシア語のグルジアから英語のジョージアになりつつあると実感しました。
宮家邦彦の発言。
まあ、この本も、厳しく言ってしまえば、われわれ一般読者の〈床屋政談好き〉を当て込んだ売らんかなの一変種であることは間違いない。かつてさる劇作家が小室直樹について言った如く、これも「高級な」床屋政談に過ぎないだろう。外交官だったという二人にしても、知っていることを全部公開しているわけではないと思う。もう外務省を離れたとはいえ、真に〈機微に触れる〉話はこんな場ではしないだろう、と思われる。
それでも、拾っておきたい箇所は多い。CNNを見ていれば、サーカシヴィリにしてもウクライナのヤツェニュークなどにしても、驚くほど英語がうまいのがわかるが、単に素人のわれわれが観てそう思うだけでなく、こうした外交のプロの目から見てもそうなのだ。
学校で教える外国語を英語に変えるということの意味。それは絶えず参照される準拠枠としての文化的スタンダードが、ロシアではなくアングロサクソン的なものになった、ということだろう。それは当然、自由を希求し、自由を保守し…という傾向を持つだろう。
ひるがえってわが国では、そこがうまくいっているかどうか。英語その他の語学の授業に取り組む先生がたの大半はまじめで誠実な人たちだが、その反面で、暗に自己抑圧的に振る舞うすべを若い人に教えることに、どこかでなっていないか。
自由に歩いて愛して-萩原健一&Donjuan Rockn'roll Band