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俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

生活の柄

 歴史家の営みのうち解釈については、絶対的に正しい解釈は存在しないことで、すでに大方の歴史家の意見はまとまっています。ですから、ソシュールの診断が問題になるのは認識の次元です。彼の所説にしたがうと、どんなにちゃんとした資料論にもとづき、どんなにちゃんと史料批判をしても、認識という作業が言葉を利用しているかぎり、正しい認識に至ることは原理的に不可能です。解釈に続いて、認識の次元でも「正しさ」が消えていってしまうわけです。これでも歴史学は科学だといえるのでしょうか。

 

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

 

 たしかに、意識や言葉の性格からして、ものごとを完全に正しく認識することはできないかもしれません。でも、まったく根拠のない認識しかできないはずなのに、たとえば、「今朝のニュース、すごかったねぇ」「うん、すごかったよねぇ」なんてかたちで二人の意見が一致するというのは、ぼくらの身の回りではよくあることです。それも、まったくのすれちがいになることなく。

 ここからわかるのは、ぼくらは認識の正しさをめぐる判断を(ある程度)共有する力をもっている、ということです。ちゃんと意見を交わし、必要なら議論をしてゆけば、うまくすると、「この認識は、絶対的な根拠はないかもしれないけれど、わりと正しいんじゃないか」という意見を他者と共有できるかもしれません。コミュニケーションのなかで決まる「コミュニケ―ショナルに正しい認識」は存在しているのです。

 

  歴史家の悩み。

 悩み、というのは、例のソシュール以来の「言語論的転回」が現代思想の流行とともに普及するにつれ、従来まじめに史料の研究をやってきた歴史家らが、素朴実在論的、といった批判を受けるようになったこと。

 つまり「ワイン」という語が史料にあったとしても、それが実際はどんなものをさすか、われわれがこんにち「ワイン」と呼ぶものと同じなのか、どこにも手がかりはないので、過去の事実は史料からは原則として再現不能ということになってしまう。そのことに気づいているか、といった指摘。

 じつは歴史学者だって、それくらいのことはとっくに気づいていただろうから、それを外野からさも鬼の首をとったように言われるのは、さぞ悔しかったろう。

 この本は「コミュニケ―ショナルな正しさ」という落としどころを提示していて、現象学以降の感じがするわあ。拾っておく。

 いつだか、札幌で、この問題についての研究会があって、資料は送ってもらったんだけれど、行けなかった。あのときは、むしょうに議論がしたかった。この8月も、札幌へ行けずに終わる。

 この雨。ジャケットにチノパン、帽子。短パンはもう出番がないかも。すでに九月の空気。


高田 渡が「生活の柄」を完唱