俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Michel Legrand Meets Miles Davis

「こういう半端な知識人がいちばんの困りものだ」と有吉佐和子さんは書きます。そんな理屈で子供や孫や子孫の未来を奪っていいのかと。これはまさに男の意見なのだと。しかもこういうことを言っている男にかぎって、じつは幸せな結婚をして、子供も作る。それなのにこんな投げやりなことを言うのはいったい何のためかというと、知識人面[づら]をするためですよ。世の中を憂えて絶望するポーズだけつくって、じつはなにも心配していない。少しも真剣ではない。投げやりなことを言いながら、じつはふつうに子育てをして、子供に必ずいい結婚をさせるにちがいないような男にかぎって、こういうことを言うんだと。

 

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

 

  70年代に、日本版『沈黙の春』ともいえる『複合汚染』を世に問うた有吉佐和子の話。「こういう半端な知識人」というのは、これからは結婚なんて古い、子供らにも結婚はしなくてよい、結婚しても子供は作るなと言っている、と放言するような手合いのこと。これは70年代の話ではあるけれど、似たような「半端な知識人」が周囲にいたという人は多いだろう。

 これは実に耳の痛い話ではあって、そういう投げやりを装うことがカッコいい、という風潮に、背伸びしたがる子供だった自分も無縁ではなかった気がする。こういう半端な知識人ぽさの蔓延こそが実は〈複合汚染〉だったのではないか、と言いたくなったりもするのであって、飛躍するようだけれど、80年代のある時期から西部邁さんが保守とか反大衆、ということを言いだしたのも、まさにこの風潮への〈反動〉であったようにも見えるんである。

 ろくに勉強が進まない。が、アイスコーヒーなど飲みつつ何もしないでいる。もう30度という日はないだろう当地。八月もあっという間に終わるだろう。そして九月になったら、また冬の心配をしているだろう。

 今週はNHK-FMで『RADIO1980』といって、日替わりで80年代の人気歌手が出ておしゃべりしている。火曜日の太田裕美さんの日は、太田さんのトークがたっぷり聴けてよかった。デヴィッド・ボウイの話をしている時など「アルバム」が「アルマブ」になったりする舌足らずな感じ。太田さんの場合は、それがごく自然で、ぜんぜん嫌みがない。

 塾でバイトしていたフリーター時代、↓これを聴いていた記憶が鮮明だ。

 


Michel Legrand Meets Miles Davis - The Jitterbug Waltz