俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

子供盆おどり歌

 これはあまりに消極的に見えるかもしれない。しかしながら、オークショットは友情を例に、人間と人間の関係には変化を追い求めない領域があることを示す。人は友人に何を求めるだろうか。その友を自分の思うように変えることだろうか。オークショットはむしろ、友人とは、ただともにいることが楽しい存在であり、友情で大切なのは、あるがままの相手を受け容れることであるという。そのような友情の根源にあるのは、自他の違いをそのまま認める姿勢である。

 

  何が消極的と見えるか、というと、「自己のめぐりあわせに淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくこと、自分自身にも自分の環境にも存在しないいっそう高度な完璧さを、追求しようとはしないこと」という、オークショットの一節。

 これはなかなかに含蓄ある一節で、〈自己のめぐりあわせに淡々としていること〉を会得できれば、上の例に挙がっている友情そのものが、水のごとく淡いものでありえるだろう。そして水のごとき淡い交わりこそが真にゆかしく、往々にして長続きする。

 他人に変わることを求める人間というのはどこにでもいる。その人間観の浅さには、まったくがっかりしてしまう。変わろうと思ってかんたんに変われるものなら、苦労はないではないか。

 若いころ、年上の女性から、あなたが変われるかどうかが大事、と言われて、お別れせざるを得なかったこともあるのは、ぼくにいろいろと至らない点があったのは確かだが、ぼくが無理をしても続くはずはないのは目に見えていて、ああするしかなかった。

 これを読んでいると、保守主義の外国語教育、というのもあり得るような気がしてきた。あえてありもしない完璧な語学力をめざさない授業、とか、学生と自分の気質の違いを肯定する教育法とか。あの先生もこの先生も、人気のある名物教授は皆そうなのかもな。


「子供盆おどり唄」 持田ヨシ子