俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Teaching English in Japan

先日遅くにテレビのスイッチを入れたら、映画の字幕が専門の戸田奈津子さんに、おっとりとした初老の紳士がインタビューしていました。話題は、戸田さんがどうやって英語力をつけたかというところでした。驚いたことに、紳士は突然怒り出しました。もちろん、戸田さんに対してでなく、自分が学校で受けてきた英語教育に対してでした。

 曰く、「言葉っていうものは、読み、書き、話し、聞くものでしょ? それなのに、日本では、読み、書きしか教えてくれない。日本の英語教育は間違っていますよ! 私は、二年浪人しているから、中学三年、高校三年、浪人二年、大学前期二年と合計一〇年、英語をやったんですがね。アメリカ旅行した時、全然通じなかった。どう考えても間違っている!」。

 よほど恨みでもあるのか、激しい口調ですから、戸田さんも持て余し気味でした。この紳士と類似の不満を胸に抱いている大人は大勢います。「そうではないですよ」と、多くの英語教育専門の学者が口を酸っぱくして反論してきたのですが、どうも納得していない方が多いようです。

 この紳士のあまりに激しい口調に接して、丁寧に説明しさえすれば、それが根拠のない批判だと説得できると思っていた私も、いささか自信を失いそうでした。

 

英会話不要論 (文春新書)

英会話不要論 (文春新書)

 

 教師として大学にいたころ、ぼくの担当は第二外国語だったけど、時たまこういう議論に巻き込まれた。

 これはじつは論じ方のむずかしい問題で、個々人の語学力に最終的に責任を負うのは誰か、というところですれ違いがあるため、不毛な議論で終わる、ということが多い。

 従来の学校英語教育が完璧なものかと問われれば、改善すべき点は多いとだれでも答えざるを得ない。かといって「それ見たことか」とあくまで制度論として声高にこの問題に拘泥する人たちの多くは、自分からすすんで例文を暗記しテープを繰り返し聴き…ということをしない人たちなんじゃないか。アメリカ旅行で通じる英語を身につけたいのなら、その人自身が自分の語学学習に最終的な責任を持つべきだと、大半の語学教師は思う。

 ぼくはまったくささやかな英語学習体験しか持たないが、幸運だったのは、制度論としてではなく、具体的なやりかたとして英語学習法を教えてくれる先生がたがいてくれたこと。

 たとえば、「君たちラジカセは持っているな。それでNHK第二の英会話の番組を録音しろ。それを半年、一年、繰り返し聴き続けたっていいじゃないか」。

 そういう番組は、一年通して聴かないと体系的な知識にならないんじゃ? と思ったのは思ったのだけれど、それを言うのはないものねだりの空論になる。さっそく実行に移してみた。ドイツ語でもやってみた。

 この方法はまったく短期間しかやらなかったのだが、いまだにAnolexia is a life-threatening disorder of deliberate self-starvation.(拒食症はわざとものを食べないという病気で、命にかかわります)とかHaben Sie ein Doppelzimmer mit Bat frei?(バスルーム付きのダブルの部屋は空いていますか?)といった文が口をついて出てくる。

 あるいは音読。または多読。さらには、格調ある英語を書きぬいて、暗記するまで繰り返し読む、というのもある。親身なアドヴァイスはたくさん耳に入ってくるはずだ。これを自分から時間を割いてやるかやらないかの問題なのだと思うがどうか。人間一人一人が時間と労力と神経を何に使うかまでは教師にはコントロールできないから、これは全く個人の自覚しだいだ。文科省は関係ない。

 そして大事なことだが、これには遅すぎるということは決してない。いや、まったくゼロから〇〇語を…というのなら年齢の壁はあるが、英語は学校で学んだ基礎がいくらかでもあるだろう(書くと長くなるが、語学は〈年の功〉がものをいう領域だと思う)。

 他人のせいにするのは簡単だし、楽だ。そうじゃなく、気づいた時点から、あらゆる機会をとらえてどんどんやればいいと思うが、皆さんどう思うか。 

 

 


Teaching English in Japan: An honest review 日本で英語を教えた正直な印象