俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

オーケストラのための協奏曲

 […」学校の先生は、かつては父親の代理物になれました。子供にとっては父親と同じくらいの権威者でしたから。でも、今、学校の先生は、父親ともども、その権威を丸裸にされてしまった。政治家と文科省とメディアと保護者が総がかりで、学校教育における父権的な要素をぜんぶ除去してしまった。もう誰も教師に自然な敬意を向けない。

 学校はただ教育商品、教育サービスを売る店舗のようなものになり果てました。だから、子供にしてみたら、学校の先生とコンビニの店員の間に本質的な差はないんです。ものは違うけれど、どちらも「商品」を売っているだけなんですから。

 

街場の共同体論

街場の共同体論

 

  父親の権威の低下、ということを繰り返し説いている前半を読みつつあるけれど、ここでおっとなって、拾っておきたくなった。

 これは実感として多くの教師がうなずくだろう。生徒/学生は自分を消費者だと思っているから、消費者として当然のことをする。すなわちなるたけ少ない対価で商品=単位・卒業証書を得ようとする。予習復習をしないのは当たり前、教師の熱意につられて興が乗ってしまい、必要以上に勉強してしまう、といったダサくて無駄なことも絶対にするまいとかまえる。遅刻、居眠り、私語、中抜け、カンニング、代返、授業妨害…何しろ自分は消費者なんだから、講師=下層従業員ふぜいになぜそれらの行為を禁じられなければならないのか、わからないのは当然だ。

 昨日、片山杜秀先生のことを書いたけれど、慶応や早稲田なんかじゃ、まだしもきちんと授業が成り立っているんだろうか。

 片山先生のような場合なんか、父権的な権威者というのとも違うだろう。メディアでの圧倒的な社会的評価があるから、そこから生ずる威厳というものがある。一流とよばれる大学では、学生さんもあまり聞き分けのない態度の悪さを示すことは少ないだろうから、そのために費やす労力も圧倒的に少ないはずだ。そういう管理労働の少なそうな大学の先生は、その分だけ温和でいられるんじゃないか、と思うことはあった。

 二年前に、一時期、『クラシックの迷宮』を毎週録音しようと思ったことがあって、そのときのMDが出てきた。三善晃が音楽を手がけたラジオドラマ「幸福な王子」そのほかをやっている。片山さんの話は、この日は脇に回った感があるが、やはりすごく面白い。


三善晃:オーケストラのための協奏曲