俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

一年間だけ英語教師をやったころの思い出

  そのような日本人と英語の長年にわたる関係を考える時、特徴的なことがいくつかある。[…]

 ひとつは、誰もが英語に関しては一家言あり、それぞれの主張や意見を強く持っていること。どんな職業であろうと、老若男女を問わず、話題に事欠いたら、英語を出すとよい。たちまち座が白熱すること請け合いである。誰もが、苦い過去を背負い、辛い体験を共有し、同じような不満と怒りを覚えている。その共通性には目を見張るばかりだ。

 

TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ (講談社現代新書)

TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ (講談社現代新書)

 

  デリケートでむずかしい問題で、この問題を高所から語る資格は、とうぜん自分にはない。

 ただ、ああこれはそうだな、と腑に落ちる一節だ。

 勤めていた時、英語の非常勤講師の先生が急に次年度は来られない、という話になり、非常勤探しがバタバタ始まったのを他人事のように見ていたが、結局ぼくの所に話が回ってきて、ふたコマ分やることになった。

 ただ、英語担当はその一年だけで、英語を専門にしている非常勤の先生をきちんと探してほしいと訴えて、おろしてもらった。もう少し器用で融通の利く人間だったら、あれくらいはずっと担当して、学内での評価を高めていただろう。

 赴任してまもなくで、おもに教えていた科目のほうも授業が成り立たず、全く手さぐりだったので、かんたんに言えば、英語までもたされるのは手に余った、ということなのだが、とにかく英語となると世間は目の色を変える、という、そのことがわかっていなかった。

 第二外国語教育はこうあるべき、という信念を持っている人というのは世の中には本当に少なくて、その分、英語以外の外国語というのは、教えていても、(不謹慎ととらないでほしいのだが)ある意味とても気楽だ。

 これが、英語を教えているというと、いろんなひとが、実にいろんなことを言ってくる。そしてひとりひとりが、英語に関して、何らかの信念を持っている。くわしくここで述べても仕方ないが、英検を義務付けてレベルアップを図り、合格者には履修を免除すべきだ的なことを言いにくる教授もいたし、「isって三人称ですよね」などとこっそり訊きに来た学生が、人前では他の学生と「大学に入ってから英語力落ちたよな」と英語教育談義をしている、といったこともあった。

 そうして、ふつうの地方私大の英語の先生というのは、世間のそうした様々な意見を一応はうけたまわりながら、けっしてぶれずに、陰口や公然たる批判も受け流し、脱落者をなるべく出さないかたちで授業を運営し、学生が英語の講義を受けたことにして単位を出すということを仕事にしているのだ、ということは、ぼくにもわかってきた。つまり、必ずしも「自分の授業で学生の英語力を上げよう」ということを第一目標にはしていないのだ。

 もう20年前、ぼくがかけだしだった頃の話。けっして英語教育はこうあるべき、という話をしたいんじゃないが、上に拾った一節、いろいろ感慨深かった。


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