俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Flying Colors

地方国立大学の教師である筆者がいちばんムカついている[…] のは、第一章でも触れた学生のニーズ言説である。当たり前のことだが、人間にはいろいろなレベルでのニーズ(欲求)があり、学生のニーズにもいろいろな段階がある。「授業にできる限り出席しないで、効率よく単位を取る」というレベルでのニーズに応えようとすれば、ドイツ語の授業などしないほうがいい。一度、頭に来て、「学生のニーズに合わせて授業をやらない」という方針を出したら[…]

 

「不自由」論 ――「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)
 

  ぼくが外国語の教師だったのはもうずいぶん前のことで、ぼくのところは国立大学じゃなかったし、悪条件は承知の上だった気がしているけど、やっぱり最初はずいぶん驚かされたんだよ。学生ってこんなに勉強する気がないのか、というね。

 それでもさいしょのさいしょは、学生の素直さを信じていられた。こちらが集中力を切らさずにやっていれば、興味のなかった若い人たちも次第に乗ってきて、結局そこそこうまくいく、というのが何年か続いたのだよな。

 いつごろからかそれが通用しなくなっていた気がする。

 これは若い人の中でも例外的にきわめて良心の鈍い子たちだったんだと思いたいのだけれど、遅刻、居眠り、叱られても居座り、不正な出席票の提出…を繰り返すやつらを、運動部の顧問に呼び出してもらって、徹底的に叱りつけたことがあって、他のもっといい思い出はもう思い出せないのに、あの事だけがくっきりと思い出されて、今でもやりきれないんだよなあ。

 この教師はトロくさそうだから、はじめから不真面目に構えて、からかって、反抗して、叱られたら誤魔化して…という、いかにも底の浅い、人を人とも思わぬ行状が、今でも思い出すたび腹が立つというのはある。ただ、その腹立ちをわきに置けば、その程度の子どもを相手に本気で腹を立てていた自分が情けない。自分はもっと大物だと言いたてる気は毛頭ないけれど、いつからオレはあんな狭量な小者になってしまったのか。

 英語の先生なんかはもっと鷹揚で、語学力の伸びは学生に個人的に努力してもらわなければだめで、オレの授業はそれとはぜんぜん関係ないんだ、といったことを言っていた。つまり、他人の語学力の成長に責任の一端をもたねば、という考え方が、かえってよくなかったのか。


《奇蹟補習社》(Flying Colors) 預告片 10月22日上映