俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Turn Down Day

週刊文春の記事が掲載されてから、私の友人たちは(口に出す者も出さない者もいるが)、書き手である私を指して「ゴーストライターがゴーストライティングの批判をしている」と思っていたはずだ。私はフリーランスの書き手になって四半世紀たつが、これまで少なくとも五十冊以上のゴーストライティングを手がけてきたからだ。友人や周囲に対していちいちそのことを公言することもないが、隠し立てもしないから、知る人は知っている私の「仕事」だ。

 

ゴーストライター論 (平凡社新書)

ゴーストライター論 (平凡社新書)

 

  例のゴーストライター騒動が話のまくらになっているが、本題はむしろ、ビジネスモデルとしての「ゴーストライティング」の実態と問題点、改善案などだ。

 タレントや実業家、コンサルタントなどの本には、表向きの「著者」と別に、じっさいに文章を書き起こす「ライター」がいる、というのは、出版の世界ではごく普通のことらしい。それは、それなくしては出版が成り立たないほど行き渡ったビジネスモデルであり、それゆえ著者は「ゴーストライティング」というあまりにネガティヴな呼び方に替えて「チームライティング」なる語を使用してはどうかという。

 もちろん、創作者である「作家」「作曲家」のかげに「ゴーストライター」がいるのはルール違反、という一線は著者も繰り返し強調する。でありながら、知的生産者たるべき大学教員にまで「ゴーストライター」を使う人がいる、というのには、いささかがっかりしてしまう。こんなくだりがある。

 何冊ものベストセラーを持っている著名な大学教授が、ある雑誌の対談のオフレコで、友人のやはり高名な大学教授に対して、いみじくもこう言ったという。

「君の本が売れないのは自分で書いているからだよ。本は他人に書いてもらった方がいいんだ」

 その構造もわからなくはない。この本は、この本自体がそうであるように、時事的なトピックに合わせて続々出る新書(これはむろん「新刊」の意味ではなく、「新書」という出版形態のことだ)のブームを話題の一つとして書かれている。出版社はいま旬の話題を第一線の専門家に書いてもらいたいが、そういう人たちは概して多忙を極めていて、新書本の執筆に時間などさけない。

そうなると、編集者は交渉の際にこう口にすることになる。

「先生、今回は急いで原稿を仕上げていただかないといけないので、『口述』でお願いしたいと思います。お忙しいから、そのほうが効率的でしょう」

 むろん、口述をもとにしながら、じっさいに書くのは「ライター」である。こうして、ひと昔前の岩波や中公の新書と明らかに肌ざわりの違う、数時間での読み捨てに特化したような新書が続々出ては消えてゆくことになる。それらの多くは短命で、古びるのも早く、新古本屋のような〈情報の場末〉に行ったら、一冊100円、200円でおいてある。読み捨てが前提だから、読みづらいものでは商品にならず、どれもビジネス書特有の平易な文体で書いてあるが、この文体も案外、無味無臭をよそおった強烈な臭みがある。それはどうやら、「ゴーストライター臭」とでもいうべきものなのではないか。そんなことを考えた。

 このブログも、今年あたまあたりから、わざとビジネス書の文体を模倣して書いている。なかなか難しいな、と思いつつ、このところこの手の文体の本ばかり読んでいたら、さすがにゲロゲロになってきた。

 総じて、この本によれば、「ライター」というのも編集チームの一員に過ぎず、「著者」といい信頼関係を築けない者は失格らしい。求められるのは第一印象の感じのよさ、清潔さ、柔軟な好奇心…変人にはとても勤まらない仕事だ。

 「ゴーストライター」に何らか目新しい文学的可能性を見よう、というこちらの期待は、ちょっと甘かった。シコ・ブアルキ『ブダペスト』がなつかしい。


Turn Down Day - The Cyrkle