俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

優雅な幽霊のラグ

  ヌーベルバーグの旗手として知られるフランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダール曰く「映画は一五分だけ見ればわかる」そうです。実際、ゴダールは冒頭の一五分を見ると、映画館を出て次の映画を見にいったといいます。

 

なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか(祥伝社新書321)

なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか(祥伝社新書321)

 

  三年前の本、というので、ささっと読んでしまうが、なかなか悪くないことが書いてあった。映画も、二時間ぶっ通しで見なければならないという通念があるので、ケータイで見放題といったサービスもいまひとつ広がらない、本も映画も、もっとすき間時間に見ることが広まってよい、というのは体験的にうなずける。

 なにせ、映画も小説も長いものが多い。興味はあるが、それを見通す、読み通すためのまとまった数時間なり数日、ないし数週間を捻出するのは、たいそう気が重い。なかなかできない。だから、部分的にでも見て、面白ければ続きを見て、という鑑賞法があっても悪いことはない。全然見ないより、うんとましだ。著者は読書も「ゴダール式読書法」でよいという。いわく

初めの数ページを読んで、著者が何をいいたいのか、とか何について書かれた本なのかがわかったらバタンと本を閉じて、次の本に向かう。それで全然かまいません。

 この本のすべてを引用しているわけにもいかないが、そうして、今すぐ役立つかどうかわからないけれど、面白い、意外なものに出会っていく、非効率で無駄な探索こそが本屋に行く楽しみなのだ、という、その一点をくりかえし述べた本だ。探している本、知りたい情報を見つけるのならばネットが圧倒的に便利だが、そうではなく、こんなのがあったのか、知らなかった、という喜びを大切にする本好きは今でも多いだろう。

いずれにしても、いろいろなことを「義務化」してしまわないことが大事です。義務になったとたん、人はやらなくなってしまいます。

というのも、本当にそう。気が向く、ということが大事。情報整理法も、あまり厳格にこの方法、と決めず、付せんを貼り、ページを折り、大事なものはノートに採り…くらいでいいだろう。

 あと一か所引用しておく。

 私は「捨てられない」人です。本はおろか、雑誌も捨てません。

 これはぼくがそう。本は、目につけば読む読まないは別にしてとにかく買い、ずっと処分せず持っている。そうして、15年とか20年とか経ってから読んだりする。もちろん、その間に古びてしまう本というものもあるが、『月と六ペンス』や『カタロニア賛歌』などはそんな本じゃない。この本には洋書のことは書いてないけれど、本を捨てずに持っていること、この一点でかろうじてぼくは洋書を読み続けられている。

 あるいは、古びてしまうものこそ大事、ということもある。古びない普遍的な価値を持つ情報は、後々になってもどこかしらで入手可能だ。そうではなく、

 一九七九年の八月に、いまはなくなってしまった渋谷パンテオンでなんの映画を上映していたか[…]

 といったことは、古い情報誌のたぐいを「断捨離」してしまったら、ほぼ永久に失われる情報だといってよい。こういう些事の集積から、逆転的に新たなものを生み出してゆくことが世の中にままあることは、小説の一本、論文の数本も書いたことのある人なら知っているだろう。

 そうそう、ぼくはビールを飲まなくなったのだけれど、著者たちはビールも出す本屋というのを下北沢に出店したそうだ。ビールを飲んで気持ちよくなって本屋に行き、どんどん本を買ってしまう、というのは楽しい体験だ。まして本屋でビールが飲めれば最高だろう。ビールを本にこぼしてダメになってしまう、ということも何回かあったらしいが、その損失より、ビールを出すことで得られる利益のほうが大きく、この本の時点ではうまくいっているみたいで、いいことだ。

 ブックカフェというのとは少し違うんだそうだが、どこかでノンアル飲料を置いてある本屋というのはないだろうか。


Graceful Ghost Rag - William Bolcom