俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

WHat You Won't Do For Love

 あえて他人を押しのけようとは思っていない。自分だけがよければ、他人なんかどうなろうとかまわない、とも思っていない。ただできるだけ自由に、楽に、裕福に、なんの不安もなく生きたいと思っているだけである。しかしそのためには、とりあえずそれらの世間価値を追うしかないのである。これはたしかに「俗」かもしれないが、けっして「俗物」の生き方ではない。ふつうの人間(俗人)の生き方である。もしこれをも「俗物」と呼ぶのであれば、「俗物」という言葉に意味はない。

 ところが、そのようなふつうの人間の生き方を「俗物」の生き方だと軽蔑する連中がでてくる。もっと人間には「俗」を超えた大切なものがある、と言い出す連中である。ふつうの人間の中でも、金を軽蔑してみせる男や 、地位なんかどうでもいい、という顔をして大物ぶるやつがでてくる。とかく「おれは世間価値には足首までしかつかっていない」という顔をしたがるのだ。そのくせ腹の中では、どっぷりと首までつかっているのだ。ここにほんとうの「俗物」が誕生する。

 

この俗物が! (新書y)

この俗物が! (新書y)

 

  いや、このひねくれっぷりがいいですよ。まるでドストエフスキーじゃないですか。もしかして著者は『地下室の手記』とか大好きじゃないのか。

 他人を俗物と見くだす人間の登場、それこそが俗物の誕生である、という逆説は、なかなかみごと。この強烈な一発をかわせそうもないひとが、過去を振り返るとあちらにもこちらにも。そして、ほかならぬぼく自身が、こうした「俗物批判俗物」だったのでは。いやここには「キッチュ」や「キャンプ」の原理が働いて、もうひとひねりが加わり、ぼくは「俗なもの大好きだもんね」という姿勢をことさらに誇示する「反・俗物批判」的俗物の極致みたいなもんだったと思う。

 これは血で血を洗うようなもので、「俗を批判する者こそ俗物」という蟻地獄は、一度はまると容易に抜け出せるもんじゃない。そこにあるのは無限の自己凝視で、どう転んでもふつうの人間=俗人の生き方の清新さは容易には取り戻せない。ここに、しろうとであれくろうとであれ、生半可に知識人たろうとすることの危うさがある。自分の放つ臭気は、自分ではわからないから、こうして、俗人たちを批判しつつ俗臭ふんぷん、という目も当てられない田舎インテリが誕生する。そういう人の少なからずが、大学の教師なんかオレでも務まる、といった顔をしたがる…いやぼくは大学にもう籍はないので、別にいいんだけれど。


Bobby Caldwell - What You Won't Do For love