俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

らくだ

 頭蓋骨の中で桂文楽が語りはじめた。図書館で落語が聴けるとは思わなかったが、快適だ。バイノーラル効果というのだが、ヘッドフォンで聴くと、部屋の空気を震わすスピーカーとちがって、これでも耳の穴の中の耳かき数杯分の空気を振動させるにはちがいないのだが、音像がダイレクトに頭蓋骨の中に結ばれる。音は鮮明だがなにか違和感があるので家ではヘッドフォンを使わないが、こと落語に関してはまことに快適。椅子はドイツ車のシートみたいな坐り心地で、ヘッドフォンの紐をひっぱっているから動きは多少制限されてもシートベルトをしているほどではない。ドライバーズシートに似ているせいで、文楽のしゃべりにあわせて運転している気持ちになる。車窓を江戸の風景が流れたり、バックミラーに小町娘をとらえたり、路上駐車してドアを開けて辻駕籠のかごかきと世間話したりしてさ、頭の中の絵柄には交通マナーはなかろうよ。

 

志ん生的、文楽的 (MouRa)

志ん生的、文楽的 (MouRa)

 

  さるかたのブログエントリを読んでいて、火がついたように平岡正明が読みたくなり、注文して、そうして数日たってそんな衝動のことなんか忘れた今朝、これが届く。これから読むが、出だし近くのこの一節のリズムなんざどうだ。過不足なく言葉をたたみかけながら、乗ってきたところで「…辻駕籠のかごかきと世間話したりしてさ」と口語調に雪崩れてゆくこの感じがまさに平岡節だ。

 いや、段ボール箱を開ければ、かつて耽読したあの本もこの本も、出てくるはずなのだ。大学二年の冬、祖父にお年玉をもらって、大学のある街へ帰り、当時「月刊マチャアキ」と称して毎月出ていた平岡先生の新刊を、大学生協からどんどん発注した。その「月刊マチャアキ」と呼ばれていた一連の新刊からは外れるものであったと思うが、『韃靼人ふうのきんたまのにぎりかた』も、生協の美人のお姉さんの受け付けてくれているデスクで、注文した。くすくす笑っておられたなあのおねえさん。

 文章には人が出る、ということを教わったのは、まったく平岡先生のおかげだとしか言いようがない。冷笑やから威張り、逃げ腰や卑屈さからは、リズムのあるいい文章なんかぜったい生まれない。リズムを生み出すのは、みなぎるようないのちの実質そのものだ。チャーリー・パーカ―を聴いてすごい奴と思えるか。トロツキーを読んで、その文体のスピード感に、ちきしょう、オレだって、と嫉妬できるか。その、生きてりゃあったりまえの感嘆や妬ましさこそが、生き生きした思想と文体を駆動する。

 いや、まだこの本、読んじゃいないから、能書きはまた今度。この人も露文の出。こんなすごい文章家/思想家が、いたんだよ。

 

韃靼人ふうのきんたまのにぎりかた (1980年)

韃靼人ふうのきんたまのにぎりかた (1980年)

 

 


落語 100%笑う 古今亭志ん生「らくだ」

 

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