俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

レースのカーディガン

防衛反応としてのインヴィディア〔妬み〕のさらに微妙でさらに痛ましい様式が、射程対応型の自己卑下である。栄冠を得たものを褒めちぎるだけではない。自分自身を落伍者の列に並べて位置づける。「私は創造にふさわしくない人間だ。 私は実質上理論的洞察を何も生み出してはいない。私は何か運動や学派を立ち上げたわけでもない。協議で新記録を樹立したわけではない。選挙に勝ったわけでもない。私の受賞は地域限定的でたいしたものではない。私は、プーシキンの言葉を借りればポスティーノ〔郵便配達夫〕であった。実際に手紙を書いたのは詩人、思想家、政治指導者、社会改良家であって、私はその書簡を運ぶ特権を授かったのである。私がこの支援の役割で端役を演じられたことでさえ、何と幸運であったことか。T・S・エリオットの有名な句を借りれば、「随行員役の長官」である(卑下の表現でさえも偉大さを含む言い回しを用いる)。」この自己矮小化は機先を制して行われる。他人から言われる前に、自分で自分がたいした者ではないと宣言してしまう。私が公共の場で論争を挑んでやり込めたことのある詩人がストックホルムから戻ったときに私を一瞥し、あざけるように「申し訳ない」とひとこと言ったとき、私はもはや取り返しのつかない立場に追いやられた。

 

 

私の書かなかった本

私の書かなかった本

 

 

  妬み…ってもう、そんなことはどうでもいいのだ。みんな元気でいてくれ。それだけだ。

 これはまったくのあと知恵、今になってとりとめなく空想するだけなんだが、もし趣味で、簿記なり、宅建なり、うんとがんばって行政書士なりの資格を取っていたとしたら、それを賭け金にして、もうすこしあの大学という名の息苦しい職場で、フリーハンドの余地が残されていただろうか。そうしたら、そっちを表看板にして、いかにも文学/語学教師っぽいヘアスタイルもやめて、パンチパーマでもあてて、ヤンキーメガネをかけて、ニットのジャケットにへんなネクタイをして、実験系の教師や学生の軽蔑を浴びておびえて小さくなっている経済系の学生を集めてうんとかわいがって、世の中の機微や、糊口しのぎのすべを教えていただろうか。お前ら、文系は…とか理系は…とか、気にすんなよ。この社会、全員が科学者やエンジニアになれるわけじゃない。販売・営業や経理をやる人もいなければ、たいていの会社は成り立って行かない。それがわからない未熟で心無いやつが、理系とか文系とか言って威張り散らすんだよ。むろん、理系の素養も大事だ。今度河原に、石を拾いに行こう。星座のことも教えてあげよう。

 いやこれは、現実の苛酷さを忘れかけていることからくる、ただの空想。宮沢賢治のころならともかく、文系と理系の溝、そんな甘いもんではなかろう。だいたい、ぼくは簿記は二級を持っていたが、それが判明すると一コマかふたコマ持ってくれ、という話が来る可能性大で、ひた隠しにしていた。

 カーディガンならぬ夏ジャケット、届いたが、サイズが合わない。即返品手続き。


坂上香織 レースのカーディガン a