UGETSU
自宅を(もしくは自宅「が」)ジャズ喫茶化している人は多いだろう。
難しいことではなく、CDないしアナログ盤と、コーヒーないしビールなどの飲み物と、そこそこの落ち着いた雰囲気さえあれば、そこが「自宅ジャズ」の場となる。オーディオはいいに越したことはないのだろうが、人によって求めるレベルが違い、IPodをかんたんなスピーカーにつないでそれで満足という人だっているだろう。その人が良ければそれでよい。
で、何を聴くか? それも千差万別で、マイルスやロリンズ、トレーンなどきわめてメジャーなものを聴く人が多いのはもちろん、ふつうの人が聞いたこともない北欧や東欧、南米のアーティストを好んで聴く人もいるだろう。これも、その人が良いと思うものを聴けばいいだけの話だ。
そもそも日本におけるジャズ喫茶の隆盛には、かつては輸入レコードが高価かつ入手困難だったこと、日本式建築のアパートや下宿では大音量でスピーカーを鳴らすことがはばかられたこと、といった要因がある。ある英語紙の記事では、日本にはジャズ専門のラジオ局がなかった、といったことも挙げられていた。
だから、音源が簡単に手に入り、再生装置もよくなり、それを鳴らせる環境があれば、自宅で心置きなく音楽を聴いていけない理由は一つもない。で、なぜジャズか? これも、じつは「自宅名曲喫茶」「自宅アニソン専門喫茶」「自宅ブルーズ酒場」でいけない理由は何一つない。今日はジャズで、明日はスティ-ヴ・ライヒ、今度の連休はローリング・ストーンズ…でもよかろう。ただ、ジャズが、コーヒーという飲み物とのいい相性、くつろぎや精神的解放の要素をもつと感じる人が多いのは確かなように思える。ぼく自身も、雪がとけて春がようやくやってくる今の季節は、ジャズが聴きたい。
ジャズは別に高踏的な貴族趣味じゃない。アメリカ人にとっては民謡みたいなもので、戦前から日本への紹介の歴史があるが(宮澤賢治『セロ弾きのゴーシュ』にも「『愉快な馬車屋』ってジャズか」との一節がある)、戦後、Coca-colonialismの一環として本格的に入ってきて、独特の定着をみた。モダン・ジャズのマニアが、他のポピュラー音楽を低く見る、といった傾向もなかったわけじゃないが、今はもう、そういう頭の固い愛好家も少ないだろう。みなカジュアルに、生活の一環として聴いてるんじゃないだろうか。
ただ、いろいろ偉そうに書いてはいるが、ぼくは一日10時間ジャズを聴く、といったマニアじゃないので、一通り聴いたら再生装置を停める。その時の静寂の濃厚な甘さといったら。これが案外、楽しみなのだな。
Art Blakey's Jazz Messengers, "Ugetsu"