俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

魔法の鏡~床屋政談肯定論の試み


魔法の鏡・・・早乙女 愛

  床屋政談肯定論の試み、というのをずっと考えていて、でもまとまった結論はとくにないので、どうしようかと思いつつ、書くだけ書いてみよう。

 理容業者にはまことに失礼な表現だが、低級な政治談議のことを床屋政談とか床屋談義と呼ぶ人は今も多い。ぼくもいつだかここに書いたとおり、心ある知識人がもっとも忌み嫌うもののひとつだと思うのだが、あるとき、研究会の打ち上げでその通りのことを言ったら、なんだかとても座が白けたのだ。

 低級な政治談議、と書いたが、じゃあてめえはそういう議論をいっさいしないのかよ、と詰め寄られると、ええ一切しませんよ、とは言えないことに気づく。ぼくは結婚していないけれども老母と住んでいて、TVニュースを観ながら「今度の選挙どうしようか」とか「〇〇党は△△だね」といった言葉を交わすことは確かにあるのだ。むろん、よそでは決してこの種の話はしないし、その種の議論が好きな人たちの場にたまたままぎれこんでしまうと、なかなかつらいものがある。

 ただこれは、他の人もおおむねそうではないのか。よそ行きの場でこの種の議論を正面切って語る人はそうたくさんいないと思う。この種の議論を交わす場は、多かれ少なかれ、非公式の、親しい友人や家族同士の空間だろう。上記のような居心地悪さを感じたときというのは、たまたま自分と関係のない親密な空間に足を踏み入れてしまったというだけであり、何か理由を見つけてそこを礼儀正しく辞去し(喫茶店なら忘れずコーヒー代を払って)、あとはなるべく近寄らない、といった慎重さが必要だろう。

 整理すると、とても親しい人同士でする会話の話題としては、床屋政談は、案外うってつけなのかも、という結論が出る。言語はコミュニケーションの手段だ、というのは半分しか正しくなく、言語学の本をいろいろ読めば、情報のやり取りのためではなく、ただただ会話自体の快さのためになされる会話というものがあることがわかる。床屋政談の本質はそこではないのか。ぼくは配偶者も恋人もいないからわからないのだが、デルフォニックスの「ララは愛の言葉」をもじって言うなら、「〇〇党もだらしないよね」は「君が好き」のコノテーションをもつのではないのか。だとしたら、たまたまその場に足を踏み入れてしまっただけの者が「低級だ」とか「俗悪だ」とか言うのがそもそも野暮というものだ。

 というか、あの研究会の打ち上げで、一瞬座が白けたのは、皆こんなことくらい知っているからなのだろうか。

 

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