俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

言の葉 青葉


言の葉 青葉 「素晴らしき仲間たち」

 「ねばならない」にたいして反発し疑問を感じながら、しかし私は、その押しつけがましい要請の倫理が支配する運動の場に身を置いていた。

 

 

滝田修解体 (biz TREND books)

滝田修解体 (biz TREND books)

 

  「ねばならない」=「当為」の発生ということをしきりに考えていたことがある。

 ぼくは国語学はしろうとで、英文法のほうがむしろピンとくるくらいだから、英語の法助動詞shouldのことを考えるのだけれど、You should do that.きみはそれをするべきだ、という文は「きみ」が主語にはなっているけれど、この文は主語の「きみ」ではなく、話者=この言葉を発する者の心的態度をあらわしているだけだ。だから、この言葉を差し向けられた者は、場合によっては「それはあなたの意見に過ぎないですよね」と返すことができる。

 「ねばならない」を人間社会からいっさい排除することはもちろんできない。そんなことをしたら、道徳も法も崩壊してしまう。法は拘束力があるからこそ法なのだし、親身な助言である場合には「ねばならない」を聞き入れる度量もときには必要だ。

 しかし、ぼくがあの時考えていたのはそのことではない。「ねばならない」「はずだ」「べきだ」を乱発しては、意味があるとはとうてい思えない仕事を量産して周囲に押しつけ、自分は営々と出世してゆく、そんな人たちのことだ。

 いや、そういう、実のない人間たちのことはもうどうでもよいのだ。ぼくが関心をもつのは、物理的な音列に過ぎない「ねばならない」という言の葉が、かりそめにもわれわれの情動を拘束し、義務感や責任感、負い目や引け目を発生させてしまう、その機制のことだ。明日からもずっと続くと思われていた自由な日々が、誰かのその一言で掻き曇って重苦しいものになってしまう、そのいきさつのことだ。言葉の学というものの重要な一側面がそこにある。

 土曜の午後。毎日うちにいるのに、やっぱり土曜日は特別だ。