ジーザス・ゲイヴ・ミー・ウォーター
先生に入門を申し出たら、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語をマスターせよ、それまでは学術書にいたるまで日本語の本を読んではいけないと申し渡された。そこで、大学の構内に住み込んで、三つの言語を同時進行で猛勉強し始めたんです。キリスト教学科だと、旧約聖書をやるならヘブライ語、新約聖書はギリシア語、神学をやりたいならギリシア語かラテン語を選択するんですが、それを全部やれっていうんですから、あれほど勉強したことはありません。
宗教学者にしても東洋史学者にしても、外国語力がみな立派、というのは文学部の院生をしているときによく耳にした。はじめから、求められるモノが違っている。一般の(ぼくが最初に進んだような経済や経営系の)・ふつうの学部生レベルでは、とうていそこまで行かない、と感じさせられることも多かった。
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ぼくは「勉強は楽しくやったほうが身につく」という考えだけれど、この考えは弱い点があって、若い人にこのことを不用意に言うと、彼らは「楽しく」を「楽をして」に容易にすり替えてしまう。ひとのことは言えない、ぼく自身がそう。
こうして、いったん安逸に流れ始めると、もうそれで終わりなのだ。そもそも「勉強」という漢語自体、辛苦の投入を意味するものなのだろうから、それを楽しくやろうというのは間違っていると言えば間違っている。
その安逸、楽をしたい、怠けたい、という気持ちに勝つためには、猛勉強をするしかない。そして、それを習慣化するしかない。そのうちだんだん楽しくなってくる。
ときどき、そういう他人の猛勉強話に、思いがけないところで出くわす。これが、励みになる。なに語をやるかは、もちろん違う。レベルも違うだろう。違っていてもいいのだ。そういう先例がある、ということ自体が励みになる。
まだ冬が終わらないが、夕方少し舞っていた雪は、もう春の淡雪の風情だった。冬の終わりにはさしかかりつつある。
Sam Cooke & Soul Stirrers - Jesus Gave Me Water